本編は『西安事件に学ぶ』の後半部分です。前半部分は3月15日掲載済みです。
西安事件の推移
蒋介石は、共産党を最終的に殲滅するための態勢を整えるため、西安入りをした。延安に落ち延びた共産党を攻撃するには、西安は地理的にも軍事的にも絶好の位置にあった。
蒋介石は当初共産党攻撃に、張学良指揮する東北軍、および張学良に好意的な楊虎城率いる西北軍を充てるつもりでいた、しかし、張学良による繰り返しの「諫言」(共産党と手を組み、日本軍と対峙すること)に辟易しており、場合によっては彼らの軍隊を西安の実戦部隊から外すことを考え始めていた。そのことが暗に張学良らに伝わり、窮地に追い込まれて一刻の猶予もなくなった張学良は、楊虎城とともに1936年12月12日早朝、クーデターを起こし、蒋介石を監禁する挙に出た。諫言に耳を貸さない蒋介石に、「武力」を用いて共産党との共同戦線を迫ったのである。
この蒋介石逮捕、監禁のニュースは、世界中に衝撃を与えた。最も驚いたのは共産党であった。敵の大将が部下に逮捕されたのである。まさにあり得ないことであった。しかしこの事態に共産党も動転し、即蒋介石討つべしという急進派(毛沢東、朱徳ら)が、まさに蒋介石処刑に動き出そうとしていた。一方、国民党の南京中央政府も、驚天動地の衝撃を受けた。こちらも何応欽らの強硬派が、西安に軍隊を派遣しようとしていた。国民党と共産党の共同戦線結成を願ってクーデターを起こした、張学良の思惑とは全く正反対の動きが展開されようとしていた。
この時大きく事態が動いたのは、共産党穏健派の周恩来の動きであった。周は蒋介石逮捕の5日後、張学良の要請で西安入りし、彼に蒋介石の釈放を促した。共産党としてみれば、憎き敵将蒋介石を葬る千載一遇のチャンスでもあった。しかし、ここで蒋介石を殺せばどうなるか。国民党をまとめる指導者はいなくなり、共同戦線を張るどころではない。世界中から卑怯者のレッテルを張られ、国際的信用を失い、日本軍の思うつぼとなるであろう・・と周は考えたに違いない。ここであえて、蒋介石釈放を促したところが周の度量の広さと言おうか、老獪と言おうか。
とまれ、張学良は周の提案を受け入れ釈放に応じる。その上で、側近の宗子文、ウィリアム・ドナルド(張学良と蒋介石の共通の友人)を呼びよせ説得に当たらせた。これにより蒋介石の頑なな態度は軟化する。さらに22日、妻の宋美齢が西安にやってきたことで、事態は急展開することになる。若く美貌の妻が現れたことで、蒋介石は強い衝撃と感激を受け、妻の主張〈内戦の停止と一致抗日〉に原則同意するのである。西安事件解決の最大の功労者は、妻の宋美齢と言えよう。さらに妻の要請で24日、つまりクリスマスイブの夜、蒋介石は周恩来と面会した。まさに歴史的場面である。よく歴史上両雄相まみえると言うが、江戸城無血開城にあたった薩摩の西郷隆盛と幕府の勝海舟、日露戦争での水師営会見の乃木希典とステッセルなど、まさに絵になる場面だ。
周恩来と蒋介石の二人は旧知の間柄で、黄埔軍官(陸軍士官学校)の教官であった。二人の会談の内容は明らかになっていないが、周恩来は、共産党は今回のクーデターに関与していないこと、蒋介石を指導者としてともに対日戦線に邁進したいと述べ、蒋介石もこれを了承したと思われる。この会談で、蒋介石はこれまでの「先安内後擾外」を捨て「内戦停止、一致抗日」を承諾したことになる。張学良が命を賭して迫った諫言が功を奏したのである。
実はここまでが、西安事件の前半のストーリーである。ご乱心気味の殿を諫め監禁した忠義の家来、旋毛(つむじ)を曲げた殿を説得した敵の武将、殿が唯一心を開いた若き美貌の奥方・・・まるで日本の義理人情劇が展開されたようである。ところがここから後半は、英雄になるはずだった張学良の運命が暗転する。
釈放された蒋介石は妻の宋美齢、宋子文およびドナルドとともに、南京に空路向かうはずであった。そうすれば張学良は英雄となり、国民党軍において不動の地位を占め、世界中にも名が知れ渡ったことであろう。しかし、である。4人を乗せた飛行機が南京に向け滑走路に入ったときである。4人を見送りに来ていた張学良が突如、なんとこの飛行機に単身乗り込んできたのである。たとえ「諫言」のためとはいえクーデターを起こし蒋介石を監禁したことは、国民党側からすれば反逆行為であり、銃殺刑ものである。釈放した人質と一緒に司令官自ら敵地に乗り込むようなものである。
さすがに蒋介石は事の重大性を説き、張学良に西安に残るよう説得した。しかし聞く耳を持たない張学良はそのまま4人とともに南京まで行ってしまったのである。おそらく張学良にしてみれば、今回のクーデターは私心から出たものではなく、あくまで「兵諫」(武力を用いて諫めること)であり国を思ってのやむに已まれぬ行為であったことを南京政府、および全世界に訴えたかったのであろう。そして潔く敵地に乗り込めば、蒋介石も南京政府も自分の「純粋な心情」を理解し、敬意をもって対処してくれるだろうと踏んでいたに違いない。ここが張学良の張学良たるところで、父親の張作霖のような海千山千の軍閥領袖ではない、苦労を知らない2世司令官であったのだろう。張学良の思惑とは裏腹に南京到着後、すぐに彼は監禁状態に置かれ、以後歴史の舞台から姿を消す。彼が西安事件という歴史の舞台で主役を演じたのは、ほんの2週間ほどにすぎない。その2週間が、彼が生の光芒を放った一瞬であった。
西安事件以後
翌年の1937年、7月7日、張学良が憂慮したように、世にいう「盧溝橋事件」が勃発し、本格的な日中戦争に突入することになる。さらに8月13日、第2次上海事変が勃発すると、国民党は共産党と全面的に歩み寄り「第2次国共合作」が成立し、ともに対日戦線を戦うことになる。まさに張学良が命を懸けて願った「一致抗日」を実現させたのである。
しかし、彼はもうその時は、歴史の舞台には立っていなかったのである。その国共合作は1945年8月15日の日本の敗戦まで続いた。しかし両党も共通の敵、日本がいなくなるとまた内戦に突入した。4年にわたる抗争の後、1949年国民党は敗れて台湾へと逃亡することになり、中国本土は毛沢東率いる共産党の支配するところとなった。
終わりに
そもそも張学良が西安事件を起こした原因は何であっただろうか。父親の張学良を列車ごと爆破し、殺害せしめた日本軍への恨みもあったろうが、それ以上に自国の存亡を前にした憂国の士の志であった。だから、同じ民族同士で戦うことの愚を説き、一致して日本軍と戦うことを蒋介石に訴え続けた。しかし、共産党こそが真の敵と考える蒋介石は、聞く耳を持たなかった。業を煮やした張学良は、ついに西安事件というクーデターを起こすに至ったとみるのが自然であろう。
ただ、西安事件は歴史上特異なクーデターであった。通常クーデターと言えば、権力の奪取が目的であるが、張学良の目的は、蒋介石政権を倒すことではなく「諫める」ことであった。ここに西安事件の特異性がある。過去の世界史を繙いてもこんな事例はあるまい。張学良は心から蒋介石の「方針転換」を願っただけなのである。
2001年10月17日の新聞で、張学良の死去が報じられたが、今の日本において張学良の名を知る人は少なかろう。もうあまりにも遠い過去の出来事になってしまったのだ。
しかし、どんなに遠い過去のことであろうと、日本の侵略に対して、命を懸けて国を守ろうとした憂国の士であったことは間違いない。
結局、西安事件で崩壊寸前にあった共産党は息を吹き返し、さらに蒋介石=国民党を打ち破り、台湾へ放逐してしまったのは歴史の皮肉としか言いようがない。しかも共産党は今、その台湾を飲み込もうと虎視眈々と狙っているのである。共産党は、今でも張学良を救国の英雄であると讃えているのに対し、台湾政権は1990年まで張学良を「反逆者」として、半世紀近く軟禁状態にしておいたのも、歴史の皮肉と言えよう。
今世界中を恐怖のどん底に陥れているコロナウイルスの蔓延は、中国が発生源である。以前にもサーズやマーズといった同様のウイルス蔓延があって、それを食い止められず多くの死者を出した。いずれも国家の威厳にかかわるとして、共産党が事実の隠蔽を図ったことがその大きな原因である。今回も同様だ。近隣する諸国にとって、なんとも悩ましい国だ。
しかし、世界有数の「大国」にのし上がった中国を無視しては、どの国も立ちいかない。であれば、歴史を正しく把握し、対中国戦略を練り上げ、「最良の」方法で対処していかねばなるまい。
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