はじめに
「一個の妖怪がヨーロッパを徘徊している−共産主義という妖怪が」
これは今から170年ほど前にマルクス・エンゲルスによって出版された「共産党宣言」の有名な冒頭部分であるが、これを今風にいえば、さしずめ
「一個の妖怪が中国を徘徊している−コロナウイルスという妖怪が」
とでもなろうか。今や中国発のコロナウイルスは、中国どころか日本を初め全世界に向かって蔓延し始めている。
それにしても、中国はお騒がせな国だ。つい最近も香港を取り込もうとして、香港政府に「逃亡犯条例改正」を押し付け、香港の自治権を奪おうとした。ところが予想以上に香港市民(特に若者)が反対し、暴動が続いている。
また、中国は南シナ海に「進出」して南沙諸島に軍事基地を築き、領有権を主張する沿岸地域諸国(フィリピンやベトナム)と激しい摩擦を起こしている。同様に東シナ海では、日本の尖閣列島を「中国固有の領土」として、日本とも激しく対立している。こうした中国とのトラブルに悩まされるアジア諸国にしてみれば、今度のコロナウイルス騒動も「またお前か」と思いたくもなるだろう。
しかしそうはいっても、13億人あまりの人口を抱え、軍事的にも経済的にもアメリカに肉薄する中国を無視しては、近隣諸国は立ちいかないことは明白だ。それゆえ日本も徒に中国と対立するのではなく、同国をよく理解し、現実をよく見つめることが肝要だ。そのために、同国を支配している中国共産党の本質について、理解せねばなるまい。
中国共産党は結党以来、対立する国民党との抗争、日本軍の侵略など、押し寄せる敵との戦いの連続であった。こうした苦境をいかに戦い、生き延びてきたのかを探ってみるのも重要なことだろう。とりわけ今から80年ほど前に、共産党が瀕死の状態から辛くも脱出し、その後の発展の基盤を築いたきっかけになったものが、西安事件と言われる。
西安事件は日本ではあまり知られていないが、中国の現代史を大きく塗り替えた決定的な事件であった。この西安事件を解明することが、中国および中国共産党の現代史を明らかにする大きな鍵となろう。
西安事件とは何か
簡単に言えば、第二次世界大戦がはじまる3年前の1936年、日本軍が満州事変以降、中国へ侵略を強めている最中、中国では蒋介石率いる中国国民党と、毛沢東率いる中国共産党とが激しく内戦を繰り広げていた。優位に立つ国民党は共産党を長征という大逃避行に追い込んだ。長征を強いられた共産党は、中国北西部の延安まで落ち延び、10万ほどいた党員も2,3万ほどに激減した。まさに存亡の危機に立たされていた。そこに延安近くの西安に、蒋介石が雌雄を決せんとばかりに自ら乗り込み、共産党の命運は尽きようとしていた。
ところが、である。まさにこの時、蒋介石の部下であった張学良が、突如西安において蒋介石を監禁し、共産党との共闘を迫ったのである。辛くも一命をとりとめた蒋介石はその後共産党と「第二次国共合作」を結ぶに至り、日本の敗戦まで共に戦うことになる。これが西安事件の概要である。
張学良とは何者なのか
1913年辛亥革命によって清朝が倒れ、代わって中華民国が成立した。しかし革命後の中国は安定せず、各地に軍閥が割拠し、互いに構想を繰り返していた。その時北東部の奉天一帯を支配していた軍閥が張作霖である。しかし張作霖は1928年、北京から奉天に戻る途中、日本軍(正確には関東軍)によって列車ごと爆破され、殺されてしまう。
その息子が張学良である。張学良は馬賊上がりの父とは違って、ヨーロッパ的教養を身に付けた合理的な考えの持ち主であった。この合理的な考えが、後の西安事件に大きな影響を及ぼす。父親の死後、張学良は当時北伐を完成させ、事実上国内統一をなし終えた国民党の蒋介石に接近した。これは父親の仇を討つためだけではなく、中国を日本の侵略から守ることがその理由であっただろう。有能であった張学良は、国民党内部で蒋介石の信頼は厚かった。ところが侵略を続ける日本軍に対し、共に戦うはずであった蒋介石は全面的に対決しようとしない。対決するどころか、むしろ意図的に対決を回避しているように見えた。ここに西安事件の本質を解くカギがある。
実は当時、ソ連の影響を受けた中国共産党が成立し、国民党とは激しく対立していたという背景があった。常識的には外部の敵に対しては、内部では対立をいったん棚に置き、一致して外敵と戦うのが普通だ。
しかし、蒋介石にとっての敵は、日本軍ではなく共産党であった。蒋介石は「先安内後擾外」(まず国内を安定させ後に外部の敵と戦う)「掃共は日抗より重し」(日本軍より共産党排除を優先)と考え、日本軍に対抗するより、まず国内の共産党勢力の壊滅の方が優先されると主張していたのである。
今日北朝鮮や中国などの共産主義が世界平和、秩序にとっていかに脅威であるかをみると、この時の蒋介石の考えは正しかったといえる。しかし、当時張学良も一般中国国民も、蒋介石にまず日本軍と対決して欲しかったのである。
共産党存亡の危機 − 長征 ―
1934年、共産党は国民党軍の攻撃に耐えきれず、根拠地であった南部の瑞金を捨て「逃亡」を開始する。歴史にいう「長征」である。追われる共産党は「抗日救国のために全国同胞に告ぐ書」(通称「八・一宣言」)を発表して、国民に一致団結して日本軍と戦うことの必要性を説いた。壊滅の瀬戸際にあった共産党は、この宣言により国民党軍の攻撃をかわそうとした。この頃から中国国民も、共産党こそが救国の主であって、国民党ではないと思い始めた。「合理的な」考えの張学良も、同様に共産党に心情を寄せ始めたことは想像に難くない。しかし、共産党は国民党に執拗に追撃され、長征を始めて2年後に北部の延安まで落ち延びた。この時点で、共産党は崩壊の危機に陥っていた。延安は西安とはもう目と鼻の先である。一方、張学良は自分の思いとは関係なく、西安の掃共司令官(共産党攻撃の司令官)に任命され、当地に赴くことになる。ここから、西安事件の運命の歯車が回転し始めたのである。
西安事件、前半はここまで。続く後半は9月掲載予定。
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