禁多浪先生 |
「本日は江戸時代の俳聖・松尾芭蕉と『奥の細道』について話し合ってもらおう。自分の知っていることは遠慮なく話してくれ給え」
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クマ吉 |
「松尾芭蕉は正保元年(1644)〜元禄7年(1694)で50歳で亡くなっているよ。昔はまさに人生わずか50年。今みたいに長命じゃなかったんだ」 |
コン助 |
「彼の本名は宗房というんだ。最初は京都をメインとして貞門俳諧を学んでいたのだけど、その後、江戸に行き談林派の影響を受けたんだよ。彼は俳諧紀行をしようとするだけが目的ではなく、命の再生、つまり、旅こそ、死からの再生と考える宗教観をもっていたのだ」 |
うさ子 |
「へえー、文学者&宗教家でもあったのね。わたしは旅をすると、命の洗濯ができると思っているわ」 |
禁多浪先生 |
「よく調べたね。感心、感心。ただ、単純に宗教家というのは問題だね。仏教的な無常観はもっていたけど、芭蕉はあくまで文学者なんだよ」
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ワン郎 |
「ぼく序文なら知っているよ。月日は百代の過客にして、行きかふ人もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮べ、馬の口とらへて老を迎ふる者は日々、旅にして旅を住みかとす…」 |
うさ子 |
「ワン郎君よく知っているじゃない。さすがに毎日、あちこち飛び歩いているだけあるわ」 |
ワン郎 |
「ついでに解説もしてあげよう。ここに月日とあるが、年月の月日じゃないのだ。空に出ているお月さまとお日さまを指しているのだよ。月や太陽は毎日、くり返し永遠に回り続けているから、これを悠久の旅人と見たんだよ。それに船頭や馬子の仕事をしている人も毎日が旅をしているみたいなものだということなのだ」 |
禁多浪先生 |
「ちょっと待った。ワン郎君らしい面白い解釈だが、“月日は百代の過客…”は芭蕉翁が尊敬する中国の詩人、李白の『光陰ハ百代ノ過客ナリ』によっていることは明らかだから、普通に光陰すなわち月日と解釈したほうが自然だね。ところで、李白の他に芭蕉翁が尊敬していた人物は誰か知っているかい」
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クマ吉 |
「それは西行法師でありまする。彼は平安時代末期の歌人だが、芭蕉はこの人をすごく尊敬していたんだ。もとは武士でもあり、僧侶でもあり、新古今和歌集の歌人としてもまた書道家としても有名でありまする。誰か、彼の歌を知っているか」 |
うさ子 |
「わたし、秋の夕暮れが好きなので、その人の歌、知っているよ。“心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ”三夕(さんせき)の歌の一つね」 |
モン太 |
「うさ子が歌を暗記していたとは恐れ入ったな」 |
うさ子 |
「馬鹿にしないでよ。わたしだって物覚えがいいんだからねっ!」 |
禁多浪先生 |
「うさ子も感心だ。じゃ、次に芭蕉は一人で旅をしたのか、グループ旅行か、どちらなのかな」 |
コン助 |
「それは一人でもグループでもありゃせん。芭蕉じいさんの弟子で魚屋を営んでいた杉山杉風(さんぷう)という弟子と一緒でした。同行二人の巡礼の旅といったところさ。修験道の白い装束を着てね…」 |
禁多浪先生 |
「旅の初めに芭蕉庵をひとに譲り杉風の別宅に移ったとはあるが、旅の道連れは曾良という弟子だよ。それから、さっきも言ったように、芭蕉をあまり宗教そのものと結びつけないほうがいい。コン助はたぶん出羽三山の旅のところを読んで早とちりしたんじゃないかな。出羽三山は霊山なので、月山に登る時には、身を清めるために修験道の行者が用いた袈裟をかけ、白木綿の“宝冠”で頭を包んで入山したとあるからね。芭蕉と曾良の旅の姿なら、蕪村や門人の森川許六が描いた絵が有名だよ」 |
コン助 |
「そうでしたか…。旅はやっぱり現代のほうが気楽でいいや。ぼくも毎日、ストレスたまっているから、どっかに旅したいものだ。禁多浪先生。われら5人組、どこかへ旅行に連れて行ってくださいよ」 |
禁多浪先生 |
「みんな、まじめに勉強がんばって、椎ノ木大学に合格したら、卒業旅行にどこかへ連れてってやるよ」 |
うさ子 |
「先生、本当! うれしい」 |
禁多浪先生 |
「わかったよ。この講座は長く続けていこう。うさ子を悲しませないためにもな。ところで、芭蕉翁はどんなところに住んでいたのか、どういう所をいつ頃、旅したのかを考えてみよう」 |
クマ吉 |
「どうやら、隅田川の畔のあばら家に住んでいて、正月になり年があけて、まるで神が取り憑いたかのようになり、道祖神が旅においでと呼んでいるような気がして落ちつかず、旅に出て行ったらしいよ」 |
うさ子 |
「道祖神って何?」 |
クマ吉 |
「早く言えば、旅人を守ってくれる神様のことさ。そして、『奥の細道』の旅は元禄2年3月27日に始まり、約5か月かけて、日光、松島、平泉、出羽、象潟(きさかた)から北陸道へ入り、大垣までの旅路を歩き、全行程は六百里といわれているのさ」 |
モン太 |
「すごい道のりだ。今だったら、新幹線であっという間に到着だよ。便利でも味気ない。やっぱり、旅はてくてく歩いて、あちこち見てこそ、おもしろいことにも出会えるのさ」 |
ワン郎 |
「犬も歩けば棒に当たるって言うだろう」 |
うさ子 |
「アハハハ…ワンちゃん、自分で自分のこと言っているね。ところで、芭蕉おじさん、何かおもしろいことに出くわせたかしら」 |
コン助 |
「那須野では、芭蕉じいさんは、野中で放し飼いの馬に出会い、畑仕事の男に頼み、その馬を借りて乗って行った。すると、後ろから“かさね”という可愛い女の子がついてきたので、駄賃をあげたという話があるよ」 |
禁多浪先生 |
「おっと待った! そこはよく読んでごらん。“あたひを鞍つぼに結びつけて馬を返しぬ”とあるから、馬の借り賃を鞍につけて返したんだよ。馬は帰り道を知っているから、ひとりで勝手に帰ったというところが面白いね」 |
モン太 |
「『遊行柳(ゆぎょうやなぎ)』の巻で、芭蕉は尊敬していた西行法師の歌の中に出てくる柳を実際に見せてもらい、感動したというエピソードがあるよ。お礼に芭蕉と曾良は田一枚の田植をしたらしい。その時の俳句が“田一枚植ゑて立ち去る柳かな”というのだ。よく知っているだろ。エヘン、プイプイ」 |
禁多浪先生 |
「ハハハ…。芭蕉先生の田植え姿か! ぜひ見てみたいね。だけどこの句は、西行法師の柳の下で感慨にふけっていたら時のたつのも忘れて、いつのまにかお百姓が田一枚植えてしまったという意味なんだよ」 |
クマ吉 |
「みんな頼りないなあ。それじゃ、わしもひとつ知ってる話を。白河関では、やはり、芭蕉が尊敬していた能因法師のことが出ていた。能因法師が作られた歌を思い出し、白い花が咲いて、まるで雪の中を歩いているみたいだと思っては、二人は冠や衣服を正して、能因法師を敬いながら通ったということだ」 |
禁多浪先生 |
「それも勘違い。原文をきちんと読めば“古人冠を正し衣裳を改めしことなど、清輔の筆にもとどめおかれし”とある。古人は能因法師に敬意を表して冠や衣服を正して通ったが、私には晴れ着の用意がない、だからせめて卯の花を…と思って詠んだ句が曾良の“卯の花をかざしに関の晴れ着かな”なんだよ」 |
コン助 |
「『立石寺』の巻では芭蕉は、この場所について清閑無比の地であるといっている。崖のふちを回ったり、岩の上を這ったりして、ようやく山上の本堂に着いた。そこで“閑(しず)かさや岩にしみ入る蝉の声”と吟じているよ」 |
うさ子 |
「松島や象潟のことなら任せて。松島は笑っているようで明るい感じで象潟は哀愁を帯びた感じがするといってるわ。そこで詠んだ句が“象潟や雨に西施がねぶの花”」 |
禁多浪先生 |
「西施は中国古代四大美人の一人だね。わたしも『平泉』の巻で感動したよ。藤原氏三代の栄華をきわめた跡も、今は廃墟となり、それを見た芭蕉は、“夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡”と詠み、笠を敷いて座り、涙していた。その様子が眼に浮かぶようだ」 |
コン助 |
「芭蕉翁は人情深い人なんだな、きっと。思いやりと優しさのある人格者なんだ」 |
禁多浪先生 |
「それはきっとコン助自身が優しくて人情家だから、そう思うんだよ。芭蕉も人情家だったのかもしれないが、この句では、目の前に生い茂る夏草を眺めて、人間の営みのはかなさを思って涙していると見たほうがいい。受験生としては、“無常観”は押さえておかないとね。さて、みんなよく調べて発表してくれたね。それじゃ、受験が済んだらみんなで一緒に芭蕉翁のように、自然の中を歩いて旅しよう」 |
一同 |
「禁多浪先生本当? わぁい、楽しみにしてま〜す!」 |