役者の〈魂〉が抜けたような「空」の表情というのを、2度見たことがある。
初めての時は、2007年新橋演舞場10月公演「俊寛」での、勘三郎畢生の幕切れシーン。
仁左衛門、吉右衛門、幸四郎等いずれ劣らぬ名優により、各人各様に演じられてきた名場面であるが、この時ばかりは度肝を抜かれた。
許されて都に還れることになった俊寛が、好き合う男女の縁(えにし)を裂くまいがため、女の身代わりに自分が孤島に残る決心をする件(くだり)。
号泣、悲嘆、絶望…過去に観たどの演出も、役者に身体振り絞ってあらん限りの思いを表白させていたが、勘三郎はここで一体に何を見せたか。
〈無〉である。自ら下したとはいえ、理不尽な運命に抗い難く流されていく人間の、正に「業」とでも呼ぶより他ないもの。ギリギリの極致に措かれた時、人は真実あぁなってしまうしかないのではと、深く心に刻まれた。
その「虚心」を思い起こさせる表情、演出につい最近遭遇した。
場所はパルコ劇場、寺山修司原作・白井晃演出になる「中国の不思議な役人」である。
元々はバルトーク作曲のパントマイム組曲だが、作品のグロテスク・エロス性ゆえにヨーロッパ各地で上演禁止の憂き目が絶えず、本国ハンガリーで舞台用として上演されたのは、作曲者の死後3カ月経ってのことである。
日本初演は1977年、寺山自身の演出で伊丹十三が役人を演じた。
本作は、32年振りの再演となる。
舞台は上海の娼館。「夢」の少女への滾(たぎ)る性欲から、何度殺されても〈再生〉する役人が、最期に思いを遂げるや笑みを浮かべて息を引き取るという大筋に、今回の舞台では大胆な解釈・試みがなされている。
新しさといえば、少女・花姚とその兄・麦。芸達者な役者陣に交じって、若い二人だけが現代からタイムスリップしたかのような、「異邦人」として現れる。
花姚を演じた夏未エレナは、劇中13歳の少女と等身大の弱冠15歳ながら、男を虜にする〈無垢のエロス〉を演じ切った。
役人は〈不死の存在〉として、虚構の中で少女を愛おしみ、絶対の愛を注ぎ込む。
「夢」は「夢」のまま見果てぬものとし、いつまでも少女の〈純潔=「夢」の時間〉を愉しみ貪ろうとする。だが、「父」なる蜜月の刻(とき)は、永遠には続かない。
少女が、役人への〈無垢なる愛〉を告白するや、虚構の中のリアリティは崩れ去り、竟(つい)に役人は現実に骸(むくろ)と化すが、舞台はそこで終わらない。
再び虚構が立ち現われ、そこでは官能を知った「女」に変態を遂げた美しい少女娼婦と役人が、一場の「夢」に輪舞(ロンド)を繰り展(ひろ)げてゆく。
作中、キー・パーソンとなるのが、連れ去られた妹を救うには役人を殺せ!と命じられ、狂言回たる女将校に引き回される、青年・麦である。演じるは若手の、田島優成。
以前別の所で彼の舞台を観たことがあるが、今回は正体不明の「迷宮」に迷い込んだ戸惑いや不安が〈逸る〉演技となって出ており、少々の違和感を禁じ得なかった。
阿片窟と外道蠢く娼館、人間犬としての奴婢、そして就中(なかんずく)日本軍と中国との因縁…寺山も固より自ら体験した訳ではないが、終生拘り続けたテーマである「魔界」の領域を、そこに唯一異質な者として措かれた「彼」を演じる者として、どの程度に理解できていたのか。
下手人としての純粋な魂の在処よりは、苦悩と向き合うことから逃げる今の若者像に近い等身大の「生」な姿が透けて看えてしまい、寺山乃至はバルトークが追い求めた、近親姦的な少女への〈憧憬・欲望・執着〉や、それが必ず崩れ去るという現実への〈絶望的な憎悪〉、延(ひ)いては本来ありうべき〈かなしみ・孤独〉すらも、役人への殺意や最後に妹を喪う(=死によってではなく、官能という「女」性の本質に衝き随うのを目の当りにする)最後のシーンにおいてこそ、伝わりきらなかった憾みが残る。
寺山が生きていた時代の、日本が背負っていたものを真にとらまえて表現するには、確かにまだ若さが勝ちすぎているのかもしれない。しかし、肉体的な若さは、そこに感動を誘うだけの精神的な深まりを伴った時、絶対美となりえる。
少女娼婦の演じ手は、「人形」から「女」への変貌が見事だった。
麦役の青年が白眉だったのは、奇しくも最後の一瞬に見せたなんとも言えぬ「空漠」とした表情である。知りぬいて、計算し尽くされた演技とも違う、演技以上の演技ともみえ、あの表情を引き出した演出家の手腕に、脱帽する。
かなり癖のある演技派達に交じって、実は一番難しかったのが青年の役所であったかも知れない。
勘三郎の円熟には及ぶべくもないとしても、若い演者の可能性ならびに、「盛り」と「時分」二つの「花」の〈虚心〉に立ち会えたことを、舞台芸術を愛する者として心底誇りに思う。
寺山は、日本の前衛の始まりと終わりに位置する、演劇人として避けては通れぬ存在だ。
その仕掛けたところの「無垢」は、麦役・田島が以前熱演した古典劇「いさかい」で実験的に扱われた、表層的な「無垢」とも大分違う。
原作の脚本(ほん)だけでなく、全体像をよく読み、時代を見据える眼を培った5年、10年先に、「彼」がより美しく侵し難い存在感を以て、私の前に立ち出でてくれることを切に願っている。
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