◇ 歌人として、官人として、
春の苑(その) 紅(くれなる)にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つをとめ
越中(現在の富山県)に国司として単身赴任、望郷の思い募る家持の許(もと)に、妻が都から移り住んできました。750年(天平勝宝2年)3月、待ち遠しい北国の春の訪れに妻と再会した喜びが重なり、歌全体が艶(あで)やかに匂い立つようです。
「新しき」の歌より10歳程若い、家持30代前半の頃の作。
うらうらに 照れる春日(はるひ)に 雲雀(ひばり)あがり 情(こころ)悲しも ひとりし思へば
春の<歓び>を謳(うた)わず、<憂愁>の春に浸(ひた)る家持。「春の苑」の優美さに、内省的な奥行きが加わりました。自らの心の内を見つめ、孤独と向き合う人間の姿――新しい表現世界の創出です。後の『古今和歌集』の中に並べ置いても不自然でない、先駆(せんく)の才と繊細な感性が精彩を放つ一首です。
因幡国に赴任する前年の757年(天平宝字元年)、<橘奈良麻呂(=橘諸兄〈たちばなのもろえ〉の子)の変>が起きました。政情不安の世で、専横を極めていた藤原仲麻呂に対抗した奈良麻呂は敗れ、橘氏に味方した大伴氏も多くの犠牲を払いました。古来朝廷の要職にあった名門大伴家は衰退し、仲麻呂(藤原氏)の権勢に拍車がかかりました。
家持自身は政争の外にありましたが、官人として、大伴家の族長として、「我らが時代の終焉(しゅうえん)」の予兆を静かに受け止める役割を担(にな)いました。もの悲しい孤立感漂う「うらうらに」の歌を詠んだのは、<奈良麻呂の変>の起こる4年前のことでした。その翌々年、「新しき」の歌を花道に、彼は歌の舞台をおりたのです。
大伴氏から藤原氏へ。万葉から古今(こきん)へ。ひとつの時代が終わろうとするとき、それは、もうひとつの時代の始まりでもあるのです。大伴家持こそ、万葉の時代をしめくくるにふさわしい人であったといえるでしょう。
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