わたしがマリー・キュリーに対していつも感じていたのが、本物の論文を載せてある書物を読めないのは何故だろうということである。さらにキュリーは夫の苗字であり普通キュリー夫人と呼ばれている。たしかにマリーはピエールが大好きで伝記まで書いている。わたしはマリーを考えるにあたりキュリー夫人ではなくマリーと表記することにする。
一年前にわたしの大好きなアインシュタインのことを書きましたが、特殊相対論の論文を載せてある書物は中学生の時くらいには分からないながら読んでるのに、マリーの論文は目にしないのである。マリーといえば物理と化学の重要人物である。それはノーベル物理賞と化学賞を受賞したことでもわかるだろう。しかし、われわれが目にするのは、伝記という形になっていて良妻賢母が中心になっている。もちろん、日本の良妻賢母のイメージとは違うと思うが、夫ピエールが変えた研究生活、共同のノーベル賞受賞さらに娘イレーヌのノーベル賞の受賞などは全く良妻賢母を象徴するのだろう。
わたしはマリーの真実というか素顔というかマリーは女性としてのパイオニアであるとか良妻賢母であるとかを考えるのではなく事実をみていきたい。
さて、まずマリーといえばラジウムである。そもそもラジウムが何かがはっきりしていない、放射性元素であることはわかっているかもしれないのでここではっきりさせておく。
ラジウムは原子番号88原子量226融点700度沸点1140度のアルカリ土類金属である。
塩化ラジウムはリン光を発する物質である。リン光とは太陽光により励起されたラジウムが基底状態になる途中で放出される黄緑色の光である。この光は放射線であるため浴びすぎると火傷を負う。この火傷は被曝であるためDNAの切断によるものである。マリーはこの光を光源として部屋に置いていた。また、ラジウムこそが人類を幸福にする万能金属であると信じていた。知らないということ貧困であることがいかに偏見に満ち危険であるかがわかるエピソードであり、やがてマリーは白血病で命を落としてしまう。ラジウムはアルカリ土類金属で反応性がきわめて高いが電気分解( 融解塩電解)よって単体の金属ラジウムを製造できる。もちろんこの製法を見いだしたのもマリー達である。ラジウムはポロニウムの分画の過程で発見されている。そこでポロニウムについても見ていこう。
ポロニウムは原子番号84原子量210融点254度沸点962度の16属酸素や硫黄と同じ属である。この原子は1898年マリーとピエールによって発見された放射性元素である。しかし、単体半金属ポロニウムが実現するのは1946年になる。ポロニウムはその名の通りポーランドからきている。マリーはポーランド出身で当時ポーランドを支配していたのが帝政ロシアであって、マリーはポーランド独立と帝政ロシアに対しての抗議の意味で命名したのは想像に難くない。
今日、ウクライナへのロシア侵略プーチンのピョートル大帝への憧憬がウクライナ国民を不幸を招きロシア離れが生まれてくるのだろう。
次にノーベル賞を見ていこう!
ノーベル賞は1901年に始まり
第1回は物理学賞レントゲン、化学賞ファント.ホフ、医学生理学賞にフォン.ベーリングであった。
マリーといえば1903年第3回物理学賞にベクレル、ピエールとマリーが受賞した。
この時の最初の受賞予定者はベクレルとピエールだけであった。当時は今よりも秘密が漏れやすくピエールに情報が入りポロニウム、ラジウムの研究はマリーとの共同作業であるなどとスエーデンに抗議の手紙を書いた結果である。これこそが神の見えざる手と言わざるを得ない。しかし、マリーとピエールが出席しない受賞式でトルネプラード総裁は「キュリー教授と夫人の偉大な成功は、古い諺ー和合は力であるーの良い例です。これは、ー男は独りでいるのはよくない、た男にそれを助ける者を与えるであろうというー神の言葉を、まったく新しい光のもとに見直させたのです。」と演説している。これは、その当時科学界は男性が中心であり女性は補助をするものであるという気持ちが現れてしまった演説であった。しかし、マリーがノーベル賞を受賞することで女性たちが希望をもって研究していく方向が示されたのである。このスウェーデンでの受賞式にはマリーとピエールは体調が悪く出席出来ず、1905年になって2人はスウェーデンに行ってピエールが講演を果たしている。講演の終わりにピエールは科学は使われ方で人類の利益になるか危険になるかと警鐘を鳴らしている。
2回目は、1911年第11回化学賞を受賞したがこの時はーラジウムとポロニウムの発見、ラジウムの単離、これらの研究により化学を進歩に寄与したことーであった。明らかに第1回目と同様の理由での受賞である。この理由にはマリーの功績に対してのサプライズだとも言われている。第1回と第2回の間に1906年ピエールの交通事故死、1911年ランジュヴァンとのゴシップなどマリーが自身の科学への功績を無くしてしまうのを防ぐことをまるで意図した様な受賞であった。まるでマリーが自分の身を犠牲にしてラジウムを研究した代償のようにわたしには写った。しかし、ノーベル財団が一科学者に対してこれほどのことをやるんだ!という驚きがわたしを満たし、流石スウェーデン、女性の立場の向上にこんなことをするのか!とも思ってしまった。
1911年といえば第1回ソルヴェー会議である。
ソルヴェーはベルギーの実業家で化学では有名な炭酸ナトリウムを製造する名称で親しまれている。その時の出席者はネルンスト、アインシュタイン、マリー、プランク、ローレンツ、ポアンカレ、ペラン、etc当時の素晴らしい物理学者が出席した。ソルヴェー会議はアインシュタインに深く関わっているのでわたしとしては嬉しい限りである。
マリーも当時の素晴らしい物理学者に触れ会うことにより研究への研鑽に励むことを誓えたに違いない。この会議では特にアインシュタインの講演に感動したと言われている。しかし、この会議の写真を見る限り女性はマリー独りであった。しかし、認めらたなら男性と並ぶことができるという証拠になったということは明らかである。
マリーは体調は悪かったがこれから外に出て活動していく、1914年に勃発する第一次世界大戦でX線装置を設置して走る 放射線車両を作り野戦病院を娘イレーヌと走り周ることになる。この時もX線を浴びすぎているが人命の為に走り周っている。はじめに書いたように良妻賢母としてイメージされているが、イレーヌはどうだったのであろうか?それは妻と死に別れたピエールの父親に丸投げして過ごしたのである。すべてを自分でやっているイメージがあるが忙しい時は日本でもやられている、ジジ、ババ頼りだったのに逆にホッとした。
さて第一次大戦後の1920年米国の女性誌の編集長メロ二ーとの関係による米国訪問、そのあとは指導者としてや、資金集めに奔走するのである。また、医療に携わることは無かったが役に立という研究をしている。
いちおうわたしは研究者としてのマリーに興味ある為ここまでにする。
マリーはラジウムに無限の可能性を感じていた。当時は放射能の知識もないので放射線を浴びすぎるのは仕方ない。全てが良い方に向かっていくことなどあり得ないのだ!
マリーは祖国の解放は明らかに望んでいた。女性の立場の向上を目指していたとはいえないように思う。が、マリーが先頭を走ることが女性を鼓舞したのは明らかである。また、イレーヌがノーベル賞を取ったのはピエールの父親が土台を作りX線車両で一緒に走り周り母の背中を見せたからだろう。
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