フランス革命以降の王政復古の混乱期に、時代を遥かに先取りした数学の視点に到達していた天才数学者でありながら、何と決闘で、しかも20歳という若さで亡くなった数学者ガロアの名前、もしかしたら皆さんも聞いたことがあるかも知れません。
ガロアの短い人生はそのフランスの時代そのもので、波瀾万丈でした。彼は比較的恵まれた幼少期から勉強は得意でしたが、その頃執筆された、通常は理解に2年はかかるという「幾何学原論」を2日で読み終え、数学の世界の虜になってしまいました。
ガロアは、超名門校と言われる学校に入学していましたが、学校側はあまり彼の能力を理解しない上、厳罰主義を方針とする学校のやり方に反発を感じるようになり、独力で数学の世界に歩み出して行きました。そして17歳の時、高次方程式に関する論文を当時フランスの絶対的存在であった数学者コーシーに提出し、コーシーもガロアの才能を認めていたにも関わらず、コーシーの体調などの理由で、学会に報告されず、原稿は紛失されたらしいのです。
ガロアの失望はどんなだったでしょう。
その上、村長だった父親が当時の政治的混乱の中で自殺してしまう、という悲劇が起こります。
さらに、その後受験したエコールポリテークという理工系の大学の面接試験では、試験管の余りに馬鹿げた質問に黒板消しを投げつけ、受験に失敗。フランス教育史上稀有の大スキャンダルと言われています。
その後エコルノルマル大学に入学し、新たな論文をアカデミー物理数学幹事の数学者フーリエに提出しますが、この論文がまた紛失されてしまいます。
こうした不幸の連続で、ガロアは社会から迫害されている、という思いが強まり、政治活動にのめり込んでいくようになります。大学も退学、政治運動中に警察に逮捕され、有罪となって5ヶ月余りも牢獄に繋がれることになりました。
獄中で書いた論文は完成されませんでしたが、その中の「群」という、数式を対象としたものでなく概念を対象とした構造的数学の考え方を提案し、それは数学史を根底から塗り替える大理論でした。
残念ながらガロアはその後、(諸説ありますが、)20歳の時、恋愛関係のトラブルに巻き込まれ、パリ郊外で銃での決闘に倒れました。もっと長く生きていれば、数学史はもっと早く、深く塗り替えられていただろう、と言われています。 |