はじめに
「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」という在原業平の歌がある。現代語に訳せば「この世の中に、全く桜というものがなかったら、春を過ごす人の心はどんなにのどかであることでしょう」となるが、もちろん本当に桜がない方がよいと言っているのではなく、人の心を騒ぎ立てる力のある桜のすばらしさを伝えようと逆説的に言っているのは明白である。「なかりせば」と仮定して見せることでこの歌の真意が一層強く伝わってきて読む人の心を打つ。
ではこれを歴史に当て嵌(は)めてみたらどうだろうか。よく歴史にはif(仮に〜なら)はないと言われるが、確かに起きてしまった過去のことをいくら反実仮想しても詮のないことではある。しかし、である。歴史は今に過去を映し出す鏡である。過去から学べば今を生きる我々にとってこれほど力強い味方はあるまい。「あの時こうしていたら」とか「ああしていなければ」とか仮定して、歴史を振り返り学べば得るものは多かろう。本論の趣旨はここにある。歴史を生かして欲しいのである。
(1)東北大震災からの教訓
多くの方が罹災され犠牲となられた東北大震災を歴史の教訓として例に出すのは胸が痛むところであるのだが、歴史からもっと学んでいれば犠牲を最小限に抑えることができたのではないかと思うことがある。それは、作家の吉村昭氏が震災のずっと前に「三陸海岸大津波」という本を書き、その中で三陸には繰り返し津波が襲っていたと述べ、とりわけ明治28年、昭和8年には大津波が襲っていたと記している。しかも2004年(平成16年)には、スマトラ沖地震による大津波がタイのリゾート地プーケットを襲う場面が、テレビで繰り返し放映されていた。覚えている方も多かろう。しかも地形的にも三陸のリアス式海岸は最も津波に襲われやすい。
こうした過去の歴史を教訓として知っておきさえすれば、地震発生直後に瞬時に高台へ避難できたのではあるまいか。そうでなくとも地震と津波はセットでやってくる。しかし津波への恐怖は、長い平凡な日々の中で次第に薄れていったのだろう。震災後マスメディア等で目立ったのは「なぜこんなに多くの犠牲者を出してしまったのか」という反省ではなく、ただひたすらに「頑張ろう!東北」というスローガンである。頑張ることは大事であるが、犠牲を多く出してしまった原因をもっと謙虚に見つめ直さないと、また同じ悲劇を繰り返すことになる。
(2)あの一日とは
では本論のテーマである「あの一日」とは一体いつどこのことなのであろうか。
それは今から107年前の1914年6月28日、場所はボスニア=ヘルツェゴビナの首都サラエボ(サライェボとも表記する)で起きた事件をさす。
日本人にとってサラエボはあまり馴染みのないところであるかもしれないが、1984年に冬季オリンピックが開かれて一躍有名になった。しかしここで起こったサラエボ事件が第一次大戦の引き金となり、ゆくゆくは第二次大戦にも繋がっていったことを考えると、日本人のみならず世界中の人々が忘れてはならない事件である。つまりこの日に起きた事件を「なかりせば……」になるようにするにはどんな手があったのかを考察してみると、今現在の世界情勢の行方を推測し対処法も打てるのではないか。この視点に立ってサラエボ事件を振り返ってみよう。
(3)当時のヨーロッパ情勢
サラエボ事件が起きた20世紀初頭オーストリアは、隣接するセルビアとボスニア=ヘルツェゴビナの領有を巡って激しく対立していた。しかも、これは単純な二か国間の対立ではなく、ゲルマン系のオーストリアにはドイツが、スラブ系のセルビアにはロシアという大国がそれぞれ後ろ盾になっていた。つまり、ゲルマン系とスラブ系の民族間の対立でもあった。さらに、ドイツはオーストリア、イタリアと三国同盟を、ロシアはフランス、イギリスと三国協商を結び、国際的にも互いに対立していたのである。
元来セルビアやボスニア=ヘルツェゴビナのあるバルカン諸国は紛争の絶えない地域でもあった。しかも、バルカン諸国は長いことオスマントルコに支配され、忍従の歴史を強いられてきた。それが19世紀になり、オスマントルコの支配が弱まり始めると、バルカン諸国では民族意識(ナショナリズム)が高まりはじめ、独立を目指すようになっていた。一方オーストリアはバルカン地域の支配を狙いセルビアと対立するようになっていた。ロシアはロシアで、同じスラブ系のセルビア民族の後ろ盾となって南下を虎視眈々と狙っていた。
とりわけ1908年オーストリアがボスニア=ヘルツェゴビナを一方的に併合したことから、同地の支配を目指すセルビアとの対立は決定的となり、一触即発の危機に陥っていた。
その「一触即発」の引き金を引いたのは、文字通り、サラエボでの2発の銃弾であった。
(4)1914年6月28日
この日にオーストリアのフランツ=フェルディナンド皇太子夫妻が、支配地域であるボスニア=ヘルツェゴビナの首都サラエボを公式訪問し、市内をパレードすることになった。
その報がセルビア側に伝わると、密かにセルビア人の間で、皇太子暗殺の謀議が巡らされた。
両国の対立は、先のボスニア=ヘルツェゴビナ併合以来、一段と激化していたのである。
それゆえ、セルビア人にとって長年の恨みを晴らし、オーストリアに打撃を与える絶好の機会がやってきたのである。こんな情勢では事件が起きない方が不思議であろう。
はたして夫妻はたった一人のセルビア人青年によって、パレード中銃撃され暗殺されてしまう。そして一か月後、皇太子夫妻を暗殺されたオーストリアは、セルビアに宣戦布告する。
すると、戦争など予想もしてなかったセルビアは動転し、慌ててロシアに助けを求めた。
ロシアは単なる局地戦の感覚で、セルビア援護に応じ参戦する。この結果、ドミノ式にドイツが三国同盟の立場から参戦を表明すると、今度はフランスとイギリスが三国協商の側に立って参戦する。これでサラエボ事件からたった2か月ほどで、一気に欧州大戦に発展してしまったのである。
その後日本やアメリカも参戦し、文字通り第一次世界大戦となってしまった。結果として戦乱は4年にもおよび、結局アメリカの参戦がきっかけとなって、協商国側(連合国側)の勝利に終わった。敗戦国のドイツは無論、また勝利国のイギリスやフランスでさえ疲弊が甚(はなは)だしく、これが第二次大戦への導火線となっていった。
これを考えれば、返す返すもサラエボ事件さえ起きなければ、と誰しもが思うであろう。では本当にこのサラエボ事件さえ起きなければ、第一次世界大戦は起こらなかったのであろうか。大変興味深い仮定である。
〈後半は後日にお届けします。〉
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