東京オリンピック・パラリンピックを前に、最近外国人観光客で盛況の店や、各種のイベントが増えている。ネット社会ならではの現象だろうが、京都市でも、街を挙げて「一見さん」歓迎ムードなのだそうだ。また、日本に憧れて来日し、そのまま長く住む外国人も多い。一体日本の何が、彼らを惹きつけるのだろうか。
風光明媚な土地や寺社仏閣の人気スポットは時代を選ばずだが、近年はサーフィン、スキーなどのレジャーに加え、お手頃価格の和食や、気軽な日本文化体験などが受けているらしい。例えば、寿司だけでなく、うどん、てんぷらなど、小鉢をバイキング感覚で堪能できる回転寿司屋は常時1時間待ちで、客はほぼ外国人で占められているという。
日本人にすれば、今更珍しさも有難みも湧かない100円ショップは、ありとあらゆる便利グッズが売られ、お土産の宝庫である。ウォシュレットやIT機器をはじめとする先端技術は、日本製品ならではのかゆいところに手の届く配慮があり、使う人の立場に思いを凝らしたモノづくりの姿勢は、手前味噌ながら密かに誇らしく感じてもいる。
そんな、日本の技術に学ぼうという、意欲ある若者の参入も少なからずある。それも、喜ばしいことに、日本人の成り手がいなくなりつつある、伝統の職人芸の世界でのことだ。
ヨーロッパには元々、アルチザン、マイスターと呼ばれる職人の親方制度があり、世襲制で代々王室の仕事などを手掛け、鍛冶職人や織物職人、陶工などの仕事が高度に受け継がれてきた。それが、時代の変化で生計を立てるのが難しくなり、親が息子を後継者にさせたがらない場合も出てきているようだ。
二世の中には、和洋折衷の新たな創作を生み出したいと、日本に技術を学びに来たが、国へ帰るのが侭(まま)ならずそのまま日本での仕事を選ぶ者もいる。
釘を使わずに千年の歴史に耐える木造建築、金箔加工や染色など、室町・奈良時代まで遡るその伝統技術は、素晴らしい!の一語に尽きる。
だが、量産と効率を求められる現場の世界では、例えば釘一つ打つのも電気ドリルで瞬時にできるようになり、その分昔ながらの職人気質を持った職人さんが姿を消しつつある。
時代の流れで致し方ない向きもあろうが、そうなると、伝統的な技術を守っていく労力たるや大変なものとなり、昔の人が日用品として事もなく使っていたものが、一般の消費者にはおいそれと手が出にくい値段にまで高騰してしまったりもする。愛蔵品の数々を見ても、山葡萄の蔓のバッグ、柿渋の漆の屑籠、江戸切子や蛍籠など、今となってはあの時よく思い切ったなという代物ばかりである。つまりは、用の美というよりはむしろ、茶道具などの骨董品、道楽品の一種に成り上がってしまっているのだ。
職人の生活と文化遺産を守るためならば、それも仕方ない。買わずに鑑賞するだけという選択も無論あるのだから。しかし、物は本来使ってこそ生きるのであり、作り手の思いを大事にすることにもなる。飾っておくだけどころか、しまいこんで密かに心の内で満足するだけでは、宝の持ち腐れだというのが、私の持論である。
和の道具やグッズには、実用性と飽きのこない趣だけでなく、江戸の伝統柄や若冲をはじめ、招き猫など、意外にキッチュで可愛いものがたくさんある。一概に時代遅れだと思うか、逆に斬新でかっこいいと思うかは、その人のセンスや理解の度合いにもよろう。
近年は、リサイクルやアンティーク着物が比較的安価で手に入るようになり、若い人や男性にも、気軽に着物を着てみようという向きが増えている。
浅草や銀座などで、お手頃価格で着付けとヘアメークまでやってくれ、散策や写真撮影ができるコースも人気だ。
中には、茶道や日舞、邦楽などが体験、鑑賞できる、日本文化体験企画もある。
和の芸道というのは、いずれも奥が深く、十年やってやっと入り口が見え、ものになるには何十年もかかる世界である。どんな師匠につくかで上達の度合いも違ってき、一流の先生に習えば、掛かりも厳しさも半端なものではない。
英会話やパソコンなどの実用性の高い習い事と違い、将来的にも仕事になりにくいし、着物など支度も必要とあって、よほど好きで入る人以外は、なかなか敷居が高く感じられてしまうようだ。
一昔前は、日本の正月と言えば「春の海」、街のあちらこちらから箏や三味の音が聴かれ、邦楽は日本人の日常の中に根差したものだった。
かつての日本では、職業婦人がさほど当たり前ではなく、娘時分は親の庇護のもとに稽古ごとに勤しみ、結婚して家庭に入り、子育てがひと段落した時点から、再度習い事を復活して余生を楽しむというのが、良家の婦女子の一般的コースであった。武家のしきたりが元々そうであったことから、富裕な商人からエリート層まで挙って、茶道などの芸事は、婦女子のたしなみや文化教養の一環として、広く浸透していくことになる。
戦後、高度経済成長、グローバル化を経て、生活様式や住居、音楽から娯楽、精神構造に至るまで、団塊以降の世代の欧米化は急進の一途を辿った。今では、日常的に着物を着たり、邦楽に携わったりしている人というのは、奇異の目で見られることもあるくらい、少なくなった。
なぜかをつらつら考えてみるに、元来の日本文化を体現するには、今のあくせくした働き方やせわしない日常とは違う、悠長な時間の流れ方が必要だからではないか。
髪を結う、足袋の小鉤(こはぜ)をはめ、帯を締める。慣れればさほど大変でもないのだが、それをすることによって、背筋がピンとして身が引き締まり、所作が決まってくる。
芸事の万事が、型から入ることの重要なわけは、型を覚えるまでに長い修練を要し、型さえ身につけば自ずと美しく見えるからだ。
テクロロジー万能で、何でも苦労なく簡単に手に入る時代だからこそ、却って我々は、古き良き時代から受け継がれてきたもの、変わらないものの価値を、再発見したいと考えるのではないだろうか。
北九州市の、「荒ぶる成人式」では、普通の若者がその日だけ特別な自分を演出するために、聖闘士星矢顔負けの豪華衣装に身を包み、<ど派手ヤンキー>な晴れの日を迎えるという。
本物のヤンキーな「あんちゃん」程、親がかりではなくて、バイトで1年がかりで100万もの貸衣装代を貯め、青春のメモリーにすると聞けば、否定するどころか応援したい気持ちにもなる。だが、仮装行列のような1日だけの変身イベントに、そこまでの大金を「ぼったくる」というのは、やはり理解の外だ。
せっかくの変身願望、勤労意欲、和への回帰意識を、商業主義に踊らされるにとどめず、地元活性化や伝統の地場産業への体験作業などに取り込み、その褒美として和装提供をするぐらいの、太っ腹な公益性と結びついた息の長い支援体制を、公共団体主導でやってはいけないものか。
京都市が市を挙げて取り組んでいる、「おもてなし」企画は、観光ブームやオリンピック景気に乗り、まあまあの成果を見せているようだ。
近年はネットでの情報も盛んで、外国の方々はどこへ行って何を楽しむかを厳しくセレクトし、それなりに日本のことを研究されてくることが多い。
大宮にある盆栽美術館には、趣味で盆栽を嗜むその道10年以上の外国人が多数訪れ、「至高の盆栽」を前に感嘆したり、プロの職人の剪定や針金掛けの技術に、真剣に目を凝らしたりしている。
以前、キャロライン・ケネディ元日本大使が茶道体験をした時の様子が、TVで報じられたが、大きな指輪を外さずに、そのまま茶を嗜まれていた姿に、些かの違和感を持った。
茶道具は、名物ともなれば、時代によっては茶碗一つ、茶入一つで人の命も左右したほど、計り知れない値打ち物もあり、指輪や時計などの装飾品は茶器を傷つける恐れがあるので、正式な茶事・茶会はもとより、稽古でも外すのが鉄則である。
茶を点てたのは名だたる茶人であろうから、無論百も承知の上で、遠慮して言わなかったのであろう。外国人だから、1回きりのことだから寛大に、という暗黙の空気もあっただろう。だが、一般の国民や世界中の人が注視する公式の場だからこそ、誤解を生まないためにも、心して進言すべきではなかったか。
ケネディ女史は、皇居での式典にも慣例を無視した平服で列席したり、日本のイルカ捕獲に猛烈に抗議したりと、文化の違いに理解を欠く点に、一部ネットなどで批判も殺到したが、異文化の相互理解にあっては、互いを尊重し合う姿勢と、自分たちの立場や考えを正しく発信していくことが何より重要だ。
日本に興味を持ち、訪れてくれる外国の人々がこれだけいる中で、彼らの理解力や知的好奇心をなめてかかってはいけない。いついつまでも、日本に対する外国人の認識が「フジヤマ・ゲイシャ」から一歩も出ないわけではないのだから。 |