禁多浪先生 |
「今回は宗教をテーマにして、『歎異抄』について討論していきます。『歎異抄』の字義は、異説・異端を嘆くということ。親鸞聖人の死後、その教えが間違って伝わることが多かったため、弟子の唯円が一冊にまとめたものとされています。内容についても諸説あり、一筋縄ではとらえがたい。西田幾多郎、司馬遼太郎、吉本隆明、遠藤周作など、幾多の知識人や文学者が深い影響を受け、自らの思想の核としています。『歎異抄』は十八章から成り、一章から十章までは、親鸞の言葉、十一章以降は、異議に対する唯円の批判となっています。では今回は、十章までの親鸞聖人が語った教えに的を絞り、初めから順を追って内容をみていきましょう。まず一章でわかったこと、コン助君から…」 |
コン助 |
「阿弥陀仏の本願は、最も罪の重い悪人を助けるために立てられたのですね」 |
禁多浪先生 |
「その通り。阿弥陀仏の本願は、弥陀を信じて極楽浄土に行きたいと願う人々をすべて救うというもので、ただ信心が要。念仏以外の善は不要であり、悪人でも信心一つで救われると説いている。阿弥陀仏の本願に救われるなら、往生においては一切の善は無用。阿弥陀仏から戴いた念仏以上の善はない。また、どんな悪を犯しても、地獄へ堕ちるという不安はなくなる。阿弥陀仏の本願で助からない悪はないからです。こう、親鸞聖人は仰せになりました。では次の二章は、念仏についてどう言っているかな。クマ吉君、どうぞ」 |
クマ吉 |
「親鸞聖人に極楽往生の道を問うため、人々がはるばる訪ねてきたときの話ですが…阿弥陀仏の本願以外に助かる道や秘密を知りたいと思ってこの親鸞のところに来たのなら、他へ行けと言っています」 |
禁多浪先生 |
「親鸞は、『本願を信じ、念仏して弥陀に救われよ』という法然上人の仰せに従い、信ずる以外何もないのだ、たとえ地獄に堕ちたとしても、微塵の善もできない自分は地獄以外行き場がないのだから、後悔はない、と説いた。そして、念仏を捨てようと信じようと、それは各々勝手になさるがよかろうと仰せになった。次、三章はうさ子さんの出番だ」 |
ウサ子 |
「この章は、悪人正機説の大事な部分です。『善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや』とは、善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われるということですよね。理屈で考えると、悪人こそが救われるというのは、「悪いことした者勝ち」みたいで、なんだか腑に落ちないのですが」 |
禁多浪先生 |
「弥陀の本願は衆生の救済にある。特に悪人こそは、その本来の対象(正機)であるという説で、他力本願の教えに徹底したものなのだ。人の行為を判断し、モラルを説いているのでなく、阿弥陀様の思想がどこに向いているか。ある時は愛欲に、ある時は憎悪に絶えず揺れ動き、生きている限り煩悩の支配から抜け出すことができないのが、人間の業。ここで言う「悪人」は、法律・道徳に反するという一般的な意味でなく、煩悩を自分自身の力では到底脱することのできない凡夫、聖者でない者ということなんだよ。一方で、『歎異抄』で言うところの「善人」とは、自分はこんなにも善を積んでいるのだから、必ず成仏できると信じている人。言い換えると、自力で仏になれると思っている人。そういう人のことを、親鸞聖人は「善人」と言ったのだ。私たちは日常、煩悩にまみれて生きている。その衆生をあわれみ救うための本願と考えれば、悪人こそ救われるというのは、信ずる者にとって何よりも力強い言葉だろう」 |
ウサ子 |
「先生、あわれみというのは慈悲と表されていますが、四章で、慈悲には聖道(しょうどう)と浄土の二つの場合があると書かれています。聖道とは、生きているとき、他人や一切のものを憐れみ大切に守り育てること。でも、思うように満足に助けきることはありえないのですね。それに対して、もう一つの浄土の慈悲は、阿弥陀仏の本願に救われて、お礼の念仏を唱えて仏の身となって、大慈悲心をもって思う存分人々を救うことを言う。聖道の慈悲は一時的で徹底しないが、浄土の方は、阿弥陀さまにお任せするという他力なので、それこそが唯一の徹底した大慈悲心なのですね」 |
禁多浪先生 |
「うさ子さん、よくわかったね。こんなに優秀だと、ぼくが補足するまでもない。それじゃ、次に五章~十章で特に印象に残った部分を、かいつまんで話してもらおう。はい、モン太君」 |
モン太 |
「親鸞さまは、自分の両親の追善供養のために、念仏を一遍たりとも唱えたことがないとおっしゃっています」 |
禁多浪先生 |
「それには理由があってね。すべての生きとし生けるものは輪廻転生を繰り返す中で、いつの世か、父母兄弟であった。そんな懐かしい人たち誰もかれも、今生で阿弥陀仏に救われ、次の世には仏となって助けなければいけない。自力で励む善であれば、念仏を両親に差し向け励ますこともできようが、善などできる私ではない。ただ自力を捨て、阿弥陀仏の本願に救われ、浄土にきて仏の悟りを開けば、どんなに苦しみに沈んでも仏の加護でご縁のある人を救うことができる、というわけだ。私たちは今生で困ったことが起きた時、仏さまに掌を合わすだろ。さすれば、浄土にいる仏さまがきっと助けてくださるに違いない。そう思うと、心強く生きていけるじゃないかね。では次は、ワン朗君」
|
ワン朗 |
「親鸞さまは、『誰が誰の弟子だとかであれこれ争うのは間違いだ。私は弟子一人も持っていない』と、おっしゃっていますが…」 |
禁多浪先生 |
「それはつまり、自分が教えてみなさんが阿弥陀仏に救われたのでなく、ひとえに阿弥陀仏のお力によるものなので、それを自分の弟子などというのはとんでもなく傲慢なこと。真実阿弥陀仏の救いにあえば、仏のご恩もそれを伝えてくだされた師の恩も知ることになるだろう、ということなんだ。では次は、コン助君」 |
コン助 |
「無碍(むがい)の一道という言葉ですが…、阿弥陀仏に救われた人は、一切が障りとならない無碍の一道という世界に出るということですね」 |
禁多浪先生 |
「なぜなら阿弥陀仏から救われ、真実の信心を戴いた人には、何物も妨げることはできない。罪悪の報いも苦とならず、どんな努力も及ばないから、一切妨げるものがない絶対の幸福なのだ、と親鸞聖人はおっしゃっている。モン太君、他には?」 |
モン太 |
「阿弥陀仏に救われて人生の目的を完成した人にとって、念仏は行でもなければ善でもない。ひとえに阿弥陀仏のお力による他力念仏のところに来ているから、もう自力を離れているのですね」 |
禁多浪先生 |
「これこそまさに『歎異抄』の真髄、他力信心なんだ。みんな、そろそろ核心的なところがわかってきたようだね。ワン朗君はどうかな」 |
ワン朗 |
「念仏を称えても喜ぶ心が起きない、またはやく極楽へ行きたいという心もない、これはなぜかと唯円が親鸞聖人に尋ねている場面がありましたが…」 |
禁多浪先生 |
「親鸞聖人は、自身も疑問に思っていたと答えている。よくよく考えれば、それでこそいよいよ、いつ死んでも極楽参り間違いなし、と思わずにおれないとも。喜ぶべきところを喜ばせないのは煩悩(一切の欲望や妄念)の仕業である。しかし、阿弥陀仏は百もご承知で、煩悩具足の凡夫を助けると仰せなのだから、他力の悲願はこのような私たちのためであったと喜ばずにおれない。また、はやく極楽に行きたいという心のない迷いの深い者を、ことさら阿弥陀仏は憐れんで下されたのだ。それを思えば、ますます阿弥陀仏の大慈悲たのもしく、命がつきれば、阿弥陀仏の極楽往生間違いなしと思わずにおれない。煩悩具足の徒であるから、他力による阿弥陀仏の救いが必要なのであり、人間は生きている内は一生迷いから離れられない。だからこそ、阿弥陀仏は救ってくださるという教えなのだね。さあ、親鸞聖人の言葉として、最後の十章まできたぞ。クマ吉君に締めてもらおう」 |
クマ吉 |
「十章は短いぞ。『念仏には、無義をもって義とす』と書いてあります。難しいな、どういう意味だろう」 |
禁多浪先生 |
「阿弥陀仏に救われた人の称える他力の念仏は、一切の自力の計らいを離れている、ということだよ。それは、言うことも説くことも、想像することもできないのですから、と親鸞聖人はおっしゃっている。今日は君たち、原典に触れて本当によく勉強した。『歎異抄』は、一宗教という括(くく)りよりはるかに奥深い読みが可能であり、哲学、人生の書というべきだ。大事なのは、言葉の難解さだけで敬遠せず、本質をつかみ取ろうと言う気概で、がむしゃらにぶつかってみることだ。」 |