『互換性』を辞書で引くと「相互に取替えがきくこと」(新明解国語辞典 三省堂)と出ている。
筆者が『立場の互換性』という言葉に出会ったのは,2005年の大学院での講義であった。「憲法総合」という演習科目で,当時筑波大学の教授であったA先生は,「原告と,被告である公権力の主体たる国又は公共団体,司法権の主体である裁判所,それぞれの立場に立ち,事案を分析せよ」ということを主眼に講義を進行されていた。
裁判になると,公法系の訴訟では,今述べた立場の異なる当事者と,審理・判決をする立場の裁判所がどう考えて,訴訟行為をしてくるのか読むことが重要になる。
刑事事件においては,犯罪の被害者がいることが多い,しかし,日本の刑事訴訟法では,裁判所に刑事訴訟を提起できるのは,検察官が原則であり,被害者は刑事訴訟の当事者ではないという制度になっている。(最近は被害者参加制度が取り入れられ,犯罪被害者が公判に立ち会うことが増えつつあるが)
このような制度からすると,刑事事件の被害者は,検察官が代弁するという歴史が長く続いてきたように思われる。
ところで,「被害者の立場を検察官は,互換しえているのだろうか」という疑問をかねてから筆者は感じていた。
筆者は,東京の某大学の医学部法医学教室(現在は社会医学系講座法医学分野)にて,不慮の事故や犯罪で亡くなられた方の法医解剖(行政解剖と司法解剖を含む)の介助を数十体経験してきたが,検察官や警察の捜査が不十分で,「死人に口無し」になりかけるという危険な状況を見たことがある。
司法解剖の最中に,師匠のO教授は,ベテランの法医学者の面目躍如かそうした危機的状況を回避し,私が経験した範囲では,再審請求の対象にされるという事態は一切免れた。
O教授と解剖室に入ると,犯罪被害者で亡くなられた方の「声」を聴くためには,半日から長くて13時間は出て来られない。その間飲まず食わず,トイレにも行けないという状況である。亡くなった犯罪被害者と向き合うには,そのくらいの手間暇と根気が必要なのである。
さて、筆者自身の、上記の疑問が現在晴れたかというと,今もって解消に至った訳ではない。
2016年6月22日に,霞ヶ関の日弁連で「全国冤罪事件弁護団連絡協議会 第25回交流会」が開催され,鹿児島の事件を素材に,報告がなされた。
詳しい事案は紙面の都合で割愛するが,テレビ朝日系「テレメンタリー2016」の2016年2月8日放送分や,「週刊金曜日(1045号)27.6.26」を参考にされると,理解が深まるかと思われる。
要するに,
- DNA型鑑定の実験ノートを鹿児島県警察の科学捜査研究所の技官が破棄した。
- DNA型が被告人の型と異なる型が検出されたのに「不明」とした。
- 貴重な証拠を,裁判所と弁護側との三者協議をすることなく、大阪の某大学にもち込んで、再々鑑定を鹿児島県警の技官が依頼した。
という点が問題になったのであるが,被害者のためにもなっていないし,被告人のためにもなっていない。そういう点では,捜査機関である鹿児島県警察の技官の行為は,各訴訟当事者や弁護側,被害者とされる人物の立場に立って物を観察して思考するという過程が抜けている。『立場の互換性』を意識すべきではなかったかと思うところである。
・数年前の事件だけでなく,今年になっても・・・・
近時,発生した刑事事件で,筆者が一番心を痛めた事件は,警視庁小金井警察署管内で発生した、音楽活動中のA大学の女子学生が,ストーカーとみられる会社員に胸頚部を20箇所以上刺され,一時意識不明にまでなったという事案である。
ストーカー事件の対応は非常に難しいところもあり,犠牲者が減らないものかと筆者も常々思っている。A○B48のメンバーも握手会と称するイベントで,のこぎりで切りつけられる事件があったが,情報を発信する側の女性の被害という点では,これらの事案には類似性がある上に,音楽活動や芸能活動をしている女性の立場を,自己の立場に恣意的に引き寄せて考えているか,自己の思いのままになるという誤信が原因になっていないかと思われる。
ファンであるのは確かだと思うが,先の彼女らから見たら「ファンの一人」という見え方に自分自身がなれないという点に,「立場の互換性」の問題が集約される。
つまり、この例で言えば「刺されたり、のこぎりで切り付けられたりしたら,痛い」という考え方があれば,刺したり,のこぎりで襲撃した彼らも「逮捕歴友の会」や「前科友の会」に入ることはなかっただろうということだ。
・閑話休題
国語という科目の特性を考慮するならば,「立場の互換性」というものを科目教育の中で触れることができるのではなかろうか。
物語文の登場人物の心情の読み取りを重視している学校も多いと思われる。
『立場の互換性』という考え方を国語の教科教育の中で,早めに身に付けることが必要ではないかと思う。中学受験で求められるのは、成熟度・大人の視点であり、いじめや少数者への差別も、すべて自他の違いを認めない=相手の立場になれないことに起因するからだ。
なかなか,人を思いやることというのは,「言うは易く,行うは難し」ではあるが,受験勉強の中でも,情操や倫理の教育としても,我々が率先して指導していかなければならないと自省する毎日である。
数年前まで,医学部の学生実習をアシストしていたが,国家試験に通り,臨床初期研修や後期研修を終えて,医師として活躍している者もいる反面,患者や看護師などのスタッフとトラブルになり,医局を出入り禁止になったとか関連病院から追い出されたなどという話題に上る者もいる。
相手方が何を考えているのか,その意見が相手の立場から見て正当なものなのかを,一旦考えれば避けられるトラブルであることも少なくない。しかし,なかなか医学部の教育でその部分を修正するように,教育と訓練をすることも難しい。
『立場の互換性』という発想を身に付けるには,高等教育の前の段階が望ましいのではなかろうかと思われる。ある程度の年齢で,一度,医局人事やポストから外れると,誰からも注意されないという無間地獄に嵌ってしまうという気の毒な状況に陥る者もいる。
どんな分野でも言えることだが、公益性の高い専門職を志望し勉学に勤しむ諸君には尚のこと、自他の相対化・客観性を忘れ独断専行に走るようにはなって欲しくないと思うところである。 |