夏目漱石は、東大の職を擲って朝日新聞に「虞美人草」の連載執筆を始めた。彼の叱責を苦にした教え子の自殺に伴い、神経症を患い、執筆に専念したい意向が強かったこともあるが、少なからぬ理由は金であるとも言われている。教職の年棒が、一高700円・東大800円。朝日の原稿料は、月200円であった。
職業作家としての第一作が「虞美人草」。続いて、「三四郎」「それから」「門」と前期三部作を成し、後期三部作「彼岸過迄」「行人」「こゝろ」へとつながっていく。
昨年は、「こゝろ」連載から百年とあって、朝日新聞朝刊に同作品が当時のまま再掲載され、現在は「それから」が連載中である。
「こゝろ」は友人Kを裏切って細君を得た「先生」が、罪の意識に長年苦しみ、竟には明治の精神に殉死する、というのが概要だ。実に精神性の高いテーマを扱った作品で、高校の国語指導では道徳的観点からアプローチされることも多い。それが、国民的作家、明治の大文豪という称号と相俟って、偉大な人物造形に一役買っているが、創作動機自体は生活の必要から生じた側面もあり、書き手の心性が作品と生き写しと言える程、崇高なものであるとは言い難いように思える。
はたして、文豪漱石と金とは、いかなる結びつきにあるのか。
漱石の実像は、急速に無理な近代化を進める日本と日本人の将来を悲観するところにあった。未来の危機を予見したかのごとき「現代日本の開花」からは、同時代の大多数に理解されず、自分の見通しがやがて現実のものとなるであろうという絶望的な呻きが伝わってくる。日本の将来に絶望し、自分の頭の中で、当時の日本人の大多数が見られないものを見てしまったことにより、極度の神経衰弱に陥る。
しかし、漱石はそれでも書くことをやめない。
「吾輩は猫である」「坊ちゃん」などは、日本語を普通に解し文字が読める人ならば、誰でもわかり楽しめる文体で書かれている。それが、韜晦(とうかい)にして高踏的であった当時の文壇の主潮と比べ、決してレベル的に低いものでないことは、今更論を待つまい。
漱石はその実体とは違い、大衆的・通俗とも評されるが、文学のすそ野を一部知識人から広範な層に広げ、日本人の本好きの一端を担ったという点で、やはり偉大な作家なのである。
天下国家を論じ、日本経済に影響を及ぼす大著を認(したた)めた福沢諭吉は、財界を牽引する私学を創立したことからも、立身出世せよと実学を尊ぶ啓蒙主義を説いたことからも、今の時代の1万円札に最適任である。であれば漱石も、山椒は小粒ながら、文学者として庶民が一番頻繁に使うお札で経済生活を担っているのは、日銀の人選の見事さに脱帽する外ない。
余談だが、漱石の写真はどれも「こゝろ」の先生のように、苦虫をかみつぶしたような苦渋に満ち溢れた顔をしている。千円札もまた然りである。
ところが、その千円を丁度漱石の顔のところで、縦に山と谷で段々に折り込んでいくと、そのしかつめらしさがなんと不思議、恵比須顔の上機嫌な表情に一変するのである。
巷でずいぶん話題になったトリッキーなお遊びだから、ご存じの向きも多いと思うが、ご覧になっていない方は、是非現物を手に取って、一度お試しあれ。別に、折りたたんだからと言って、使えなくなるとか貨幣価値が下がるという心配は全くないので。
漱石には、悲観主義の一方、風刺小説に見られるような、滑稽味や道化の描写といった二面性があった。それで、世の中と精神的な折り合いをつけていたのではないかと思われる。
また、漱石の風評として、女が書けないということが盛んに言われる。放蕩作家のような官能性もなく、現実離れした、形象的で男の観念の中で理想化されたヒロイン像の所以か。
「こゝろ」の終章で、先生の遺書にこんな一節がある。Kとの経緯を、君だけに話すが、細にはただの一言も告げないでほしいと懇願する件だ。
「私は細には何にも知らせたくないのです。細が己れの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが、私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、細が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい。」
「虞美人草」の藤尾には、男にプライドを傷つけられ憤死するという、現代でも稀にみる勝気でエキセントリックな側面があるが、漱石の前期三部作以降の作品群に登場するヒロイン像はどうか。「三四郎」の美彌子は唯一自由奔放な磁力に富むが、「それから」の三千代、「門」の御米。また、「こゝろ」では名前さえも与えられていない、Kから奪い取って細君となったお嬢さん。当時の時代状況を差し引いても、男にとって実に好都合な、健気でひたむきな女性たちばかりではないか。
こんな女人がはたして現実にいる?少なくともいたのか?
明治なら、あるいはいたかもしれない。しかし、実際漱石の身近に?というと否、であろう。
漱石は倫敦留学中、ホームシックと神経症を患い、家族に幾度となく手紙を書き綴っているが、妻からの返事はただの一通も戻ってきていない。帰国後も夫婦関係は冷え込んでいたが、悪妻で浪費家と風評高い妻と、離縁も叶わぬ。エリートで高給取りでも、夏目家の経済状態は常に切迫していた。家長としての体面上、ますます神経衰弱になりながらも、漱石は大衆作家として書き続けなくてはならなかったのだ。
公人として、学術論文に綴られる観念世界のみならず、現実の家庭生活や内面世界においても、漱石の苦悩は深かった。いや、一個人として、男として、ヨーロッパで近代的自我の洗礼を受けただけに、当時の日本では表立って口にすべきでなかったであろう、私的で些末な悩みこそが、どんどん澱のように蓄積され、肥大化されていったであろうことは想像に難くない。
まさにそれこそが、漱石が忌み嫌い、克服すべきと睥睨してきた、日本独自の曲折を踏んだ自然主義(=私小説)文学的なものであり、狭小で偏屈な日本そのものだったかもしれないからである。
漱石の頭は、当時の(延いては現代の)日本が抱える諸問題の、はるか先を突き抜けて見透していた。その実、生活感情はどうにも上手く立ち回れぬ家庭の経済や女というものに、終生拘泥されていた。
人は、心があって初めて頭が機能する。<苦悩する漱石と、笑う漱石。>
今はとんと見かけることの少なくなった旧版の千円札は、我々にいろいろなことを語りかけてくれる。
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