最近、ちょっと面白い体験をしました。
ある生徒(Aちゃんとします)に国語を教えていたとき、「最近いい映画を見たので、その感想文を書きたい」というので、「いいね、何という映画?」と聞くと、「銀河鉄道999」と言います。
皆さんはご存知でしょうか。『銀河鉄道999』は私が小学生の頃に作られたアニメ映画です。実は私はこの映画が本当に大好きで、“私の青春の映画ランキング”上では常に一位を保っているくらいです。こんな古い映画を、世代も下の生徒が見て感動して、感想文を書きたいとまで言ってくれたことに、私の方が感激してしまい、どんな感想文を書いてくれるのかなとわくわくしながら、書き上げるのを待っていました。
さて、Aちゃんが感想文を書き上げるまでに、お話を知らない人のためにざっくりとあらすじをご紹介しましょう。
近未来の地球では、生身の体を捨てて機械の体となった“機械化人”が幅を利かせていました。生身の体は病気や怪我に苦しみ、いつか死ぬ運命ですが、機械の体になると、部品交換とメンテナンスをきちんとすれば半永久的に生きていられるというので、お金持ちはこぞって機械の体になり、機械の体を買うお金のない貧しい人たちがスラムでひっそりと生きている、という設定です。主人公の少年、星野鉄郎もそんな一人でしたが、母と二人でお金を貯め、やっと機械の体を買いに都会に出る道中で母は機械伯爵という人物に殺されます。鉄郎はその後、銀河鉄道のパスを謎の女性メーテルからもらい、機械の体を無料でくれるという星へ行き、機械の体を手に入れた上で母親の敵討ちをするという目的で、999号に乗って宇宙を旅します。しかし、旅の途中で様々な人との出会いとたくさんの経験を通して、「限りある命」の素晴らしさに気付いた鉄郎は、宇宙の秩序を支配する機械化人たちの総本山に乗り込み、その星を破壊して帰ってくるという話です。
この映画のテーマは「限りある命の素晴らしさ、尊さ」だと、私はずっとそう思っていました。旅立ち、正義と悪の対立、自由とは何か、恋愛感情、母性的なものへの憧憬、人生の先輩からの助言と援助、などなど、典型的な若者の冒険譚に必須な要素は漏れなく入っていますが、鉄郎とともに宇宙を旅してきた後、私の心に残ったのは、人はいつか死ぬ、そういう限りある命だからこそ、今この一瞬を大切にして、一生懸命に生きることができるのだという、生命礼賛的なメッセージであり、感動だったのです。
さて、Aちゃんの書き上げた感想文を読んだ私は、正直言って唖然としてしまいました。彼女にとって印象に残った場面は二つ。一つは機械伯爵への復讐を果たした鉄郎が、メーテルに愛の告白めいたセリフをもごもごと口ごもる場面で、もう一つはエンディングでメーテルが鉄郎にキスをする場面でした。
Aちゃんが言うには、鉄郎がメーテルに「一緒に暮らしてほしい」とはっきりと言えずに口ごもるところが何とも言えず可愛い。そして、メーテルが鉄郎の気持ちを気遣い、はっきりとした返事をしないところが、大人の女性という感じで素敵。大人の女性に憧れる。そして、エンディングでメーテルに突然キスされて、真っ赤になる鉄郎がまた可愛いのだそうです。
私は思わず、「えっ、それだけ・・・?」と正直な感想を漏らしてしまいました。
Aちゃんは小学6年生。恋バナにも大いに興味が出てくる年齢であり、ちょっとおませな彼女が告白シーンとキスシーンに反応したとしても、よく考えれば、全く不思議ではありません。そして、その二つのシーンが彼女の心を強くとらえたために、その他の要素、ストーリー展開やらスリリングな戦闘シーンやらその他のキャラクターの魅力やら作品のテーマといったことが、ほとんど印象に残らなかったのだろうと思います。
逆に私にとっては、鉄郎の初々しい恋愛感情は、もちろん微笑ましくも切ないものではあるが、物語の中核ではなく、サイドエピソード的な要素として認識されていたので、そこを中心に感想文を書くという発想は全くなかったのです。
ですから、Aちゃんがこのような感想文を書いたときに、少なからず戸惑いを感じたのですが、このことを通して、なるほどねえ、感想文を書くことの一つの意義はそこなんだなあ、と再認識したわけです。
つまり、こういうことです。私とAちゃんとでは、同じ映画を見ても、見ているものが全く違うのでした。実は、これは日常生活でもよく起きていることだと思います。
誰でも、自分の中の関心事項や優先順位に従って物事を見ているし、関心のない、優先順位の低いものはたいがい見落としています。しかも、ここがミソなのですが、自分が見落としているということには、まず自分では気づかないのです。
それが、他の人と意見交換をしたり、今回のようにどちらかが文章で表現したりすると、「えっ、あなたはこんなふうに見ていたの?」「私はこういうふうにしか見られなかったけど、違う見方もあるんだ!」という発見をすることができます。
自分と違った見方と接することは、時には自分自身にとって心理的な脅威ともなりえます。人は誰も、自分自身が正しいと感じている世界観があり、常にその枠内で物事を見ています。ですから、その枠から外れているように思える意見を聞くと、それは間違っている、と認識されるのが自然なのです。そして、「間違った」意見を持った人や「間違った」ものの見方をする人とは、なるべくお近づきになりたくない、というのが人情ですよね。
しかし一方、自分と違った見方と接することは、同時に、自分の持っている世界観や枠を超えて、より広い視点で物事を見るチャンスでもあるのです。条件反射的に自分の中から湧いてくる、正しい・間違っているという判断をいったん脇に置き、「ああ、そういう見方もあるのか」と、ニュートラルに人の意見を受け取ってみる。そして、「私とあなたの意見の違いはどこから出てくるのだろうか?」と考えてみるとき、自分の持っていた価値観や世界観に気づくことができるかもしれません。それから、その自分の価値観や世界観が絶対的なものではなく、あくまでもたくさんある可能性の中のほんの一部であることにも気づきます。
私はAちゃんの感想文に接して、戸惑いを感じたのですが、Aちゃんの感想文を否定したわけではありません。 Aちゃんにとっての『銀河鉄道999』は、そういう映画だったのね、と受け取り、その上で映画の主題についても話し合いました。
ただ、どうして自分があのとき戸惑いを感じたのかなあとよく考えてみると、国語の教師として、「感想文を書くときは、その作品の主題や、登場人物の本質をとらえ、そこに対して自分がどう感じるかを書くのが良いのだ」というふうに信じていたのだなあ、ということがわかりました。また、私は恋愛描写に対してそれほど反応しない、つまり、そこに大きな関心を持っていないのだなあ、ということも。(笑)
このように、私はAちゃんという他者を通して、今まで自分が気づいていなかった自分の世界観や価値観を知ることができたわけです。
自分が考えていることを言葉にすること、文章にすること、そしてわかりやすく相手に伝えることはとても有意義です。そのことを通して、お互いがお互いを知っていくのももちろんですが、それ以上に双方が自分自身についても知っていくことができるからです。
人にとって、およそ、自分自身を知るということ以上にわくわくすることがあるでしょうか。人を見て、自分を知る。自分の持っている価値観や考え方を知る。「へえー、私はこういう考え方をしていたんだなあ」「これを正しいと信じていたんだなあ」と知るとそこから自由になれます。
自分がある価値観や考え方を持っていると気づかずにいるときは、その価値観や考え方が絶対で、変えることもできませんが、それに気づいて、相対化できると、自分で自由に価値観や世界観を選べるようになるからです。自分を窮屈にしてきた考え方をやめて、もっと楽で、皆がハッピーになれるような考え方を採用することだってできるかもしれません。
自由になるということは、変化を恐れないということです。今まで自分が正しいと信じていた世界観が崩れるとき、人によっては苦痛を感じる場合もあるでしょう。でも、それを通して新たにより広い視点、より大きな世界観を獲得できた人は、それ以前よりも確実に自由になっているはずなのです。そして、そのように変化していくことが怖いことではなく楽しいことだと知った人は、根本的な部分で自分に自信を持つことができるようになります。勉強をすることの本当の意義というのは、このへんにあるのだろうなあ、と最近つくづく考えるようになっている私です。
※『銀河鉄道999』は、原作の漫画、テレビ版、劇場映画版で少しずつ設定やストーリーが異なっており、ここでは映画版について書いています。 |