昨秋、上村松園のシルクスクリーンが我が家にお嫁入りした。日本画の中で私の最も好きな木板で、その名も『 娘深雪 』という。
格調高い古典的作風で知られる松園の中では異質とされる、「 恋の三部作 」中の一つだ。
箏の稽古中にふといとしい相手のことが心に過り、手にした扇ごと、くず折れてもの思いに耽るという、恋を知り初めた少女(をとめ)のときめきが描かれている。
着物の意匠も顔も美しく、全体に淡く薄桃がかった色調が、うら若い女性の可憐で一途な魅力を余す所なく伝えている。
三部作中、続く『 花がたみ 』は、同名の能舞台「 花筐 」を題材にしている。
かつて情を交わした天皇に再び見(まみ)えたいと、行幸の最中に髪振り乱した身も世もあらぬ風情で歩みより、思いの丈を和歌に綴った扇を差し出そうとする。
正気を逸した貌(かお)に散りかかる桜の花弁が、「 滅びの美 」を連想させて妖しい雰囲気を醸しており、行きどころを喪った愛の様相(すがた)もはかなげでもの哀しい。
最後は『 焔 』(ほのお)
此に顕(あらわ)れるのは、凄絶な女の幽霊である。直線を排したフォルムと、松園の異才で瞳に点じた金彩と朱からは、強烈な妖気が放たれ、生者のダイナミズムや癒しを我々が感受することを禁ずる。それでいて、観る者をとらえて離さない圧倒的な存在感。女の業の深さと刹那性をこれほどまで表現し得た作品を、他にはついぞ知らない。
三作どれも、松園を措いては不可能な独自の境地に達した作品であり、それぞれ私なりに思い入れも深いが、家に飾って朝な夕なに眺め暮らすには、狂女や幽霊でなく、恋にときめく初々しい女性がいいと思った。
いくら名前が同じでも、『 娘深雪 』に描かれた世界は、もはや自分には取り戻しようもない、儚くも懐かしい記憶を伴った、遠い過去の〈 幻影 〉であるから……
箏曲の中でも、古曲の地唄は、間の取り方や弾く音と歌う音との違いが、殊の外難しいとされる。
地唄ではありのままの自分を晒し、オクターブ低い地声で、飾りをつけずに歌う。内に溜まっているものを声にして吐き出すと、自分が一本の木になったように洗われて、ただそこに在るがまま在る如く、〈 浄化 〉されていく。
箏を弾いていると、世の中のことを何も知らず、真っ直ぐだった少女の頃がふと甦ってきて、何かに憑依されたように純一な感覚に襲われることがある。
どんなに忙しく疲れていても、自分だけのために楽しむ時間を持とうと、深夜過ぎてから一頻(しき)り舞に勤しみ、それから徐(おもむろ)に箏を爪弾く。
ゆったりと時は流れ、3時、4時…或は6時と白々と靄(もや)が立つ頃には、いつしかもの狂おしい〈 般若 〉の顔つきに変貌した我が身に怖気(おぞけ)立つこともままあるが……
其処から修復をかけ再び社会に戻るべく、すべてをリセットして〈 朝の眠り 〉に就く。
……………zzz……………zzz……………zzz……………zzz……………
かくして、起きている間も常に夢うつつ。
頭は受験生泣かせの「 難問 」を次々捌(さば)きながらも、細胞の深部は〈 此処ではない何処・其処にいる誰か 〉の下へ勝手に飛翔していく。
そうして、しかつめらしい入試問題にやたら熱く入れ込んだ解説を施したりして、後で微苦笑する羽目になるのも、まぁ私らしいご愛嬌の内と、最近では半ば諦めて達観している。
一期は夢よただ狂へ 『 閑吟集 』
舞ふことのあやしからずは手枕に箏弾くごとき鶴の足取り
( 拙詠 )
at 伝承ホール |
拙庵にて
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