長年一緒にいた相手が音楽関係者だった縁で、クラシックのコンサートには足繁く通った。主催者側でも、一枚余分に券を購入し、夫婦同伴で行くのが演奏者へのマナーという、業界暗黙の掟に拠ったものだ。
ある時、バロックの夕べがあった。時代考証に忠実に、小ぢんまりとしたホールでのチェンバロと器楽による演奏。その後、出演者とバロック音楽の大家の先生を交え、トークコーナーと一問一答の機会が、幸運にも聴衆に与えられた。
皆が活発な内にも和やかにやりとりする中で、若気の至りでつい出しゃばって、生半可な口をついてしまった。
その時、「 当時の楽曲は宗教に基づいて、楽譜自体が単なる音符ではなく<言葉>を形成しており、意味をもったフレーズを『 歌 』として奏でている 」という、音楽を多少齧った者からすれば常識中の常識であろうことを、大先生御自ら噛んで含めるように教えて戴き、眼からウロコの感を得た。と同時に、眼鏡の奥の眼差しこそ優しかったが、厳とした声音で、以下の意味のことを諭された。
「 我々は、一般の聴衆レベルが想像もつかない程、深遠で気の遠くなる鍛錬を、はたして理解され得るかとか意味があるかとかはお構いなく、日々たゆまず行っている。だから、その一点にかけてプロであるのだ 」と。
その時は、己の無知を恥じ入るばかりで、畏れ入って聞いていたが、後にして、これはどんな仕事、どんな道にも通じることではないかと思い至った。
さらに、演奏者の方が言葉を継ぐ。
「 我々はもちろん全部わかってやる必要があるが、オーディエンスには片鱗までもご理解戴かなくても構わないし、そこまで望みようもない。だが、知識として先見的に入っていなくても、目の前の演奏を聴いた時に、五感で何か感じ取れるものはあるはずだ。それが音楽の力であるなら、世界共通言語として、音楽には正しく万人が楽しめる懐の深さがある 」
演奏後の拍手には、演奏者のみが知れる聴衆の手応え、言ってみれば「 生の体温 」があるそうだ。熱気、興奮、喜び、感動、時には冷淡、怒り、悲しみ…それらを包含して、舞台は終わる。
「 どれがいいということではなく、すべて自分の精神状態がムーブメントとなって、お客様から返ってくる。この会場は、お客様との距離が近く、一人一人の反応、表情や息遣いが直に伝わってくる。今日の演奏は、拍手が殊の外温かく感じられて、終わった後の爽快感がたまらなくよかった 」
先程の奏者が感想を漏らした。私は、その時までアーチストが演奏中や演奏直後に、そんなに聴衆に関心を寄せて下さっているなどとは、思いもよらなかった。自分の演奏に精一杯か逆に酔い痴れていて、観客など目に留まってないのがクラシックの演奏者たる所以であろうと。その位傲岸でなくては、この世界でトップに立てないような勝手な思い込みがあったが、事実は全く逆だった。
コンサートは演奏者が、逃げも隠れもできず誤魔化しも効かない、その時の自分自身を聴衆に晒す場である。CDや映像媒体で、世界的名演奏が良質な音でいつでも手軽に楽しめる時代だが、それでもなおかつ生演奏を聴きに行く醍醐味は、強いて挙げればそこに尽きようか。
歴史的名演奏にしか興味がなければ、只管ライブラリーを充実さすことに心血を注ぐもよし。だが、所詮<機器>は<機器>だ。その場に立ち会った感動は、同時代を生きたという幸せな記憶と共に、終生続く。絵画や映画と違い、「瞬間芸術」と言われる演劇、舞踊、音楽の類は、再生が効かず消えてしまうからこそ、永遠の命が宿るのである。
私の浅薄で稚拙な質問にも、職業柄もあってか、熱く真摯に語って下さった忘れ得ぬ方々との出会いのおかげで、様々な芸術文化に違った視点から発見や喜びをもって、楽しんでこられた。
最近は、舞台に立つ方の経験もたまにさせてもらうようになり、修練の必要や厳しさはそれなりに実感しつつあるが、観客に気を配る余裕までは、今の私の分際では到底ない。
身体作りから始まって、諸々の勉強。素晴らしい師匠方に導いて戴き、好きなことに没頭できる幸せに感謝しながらも、つくづくと本当のプロというのは凄いものだな、と改めて敬服する次第である。
「朝日のあたる家〜朝日楼」
at 渋谷公会堂
|