芸術と恋愛は、切っても切れない関係にある。西洋では芸術家にとって、創作の源流となる運命的な対象を古来「ミューズ=詩と愛の女神」といって、親愛の名で呼び習わしてきた。
今なお世人を啓発する芸術家の<愛の軌跡>を辿り、それぞれのミューズ達が果たした役割を繙いてみたい。
<ダリとガラ>
ダリ(1904〜1989)/ ガラ(1894〜1982)
仏蘭西の詩人、ポール・エリュアールとの結婚のため祖国ロシアを離れたガラは、一時期画家マックス・エルンストを恋人にするが、やがて奇才サルバドール・ダリと結ばれる。
ガラは、自分では詩を書き批評する能力も、絵筆を執ることもなかったが、芸術家を夢中にさせて、愛の詩や絵に感動と理解を寄せ、売り込んで応援することはできた。
ここに彼女のミューズたる所以があると言われている。ガラが生涯に渉って果たした役割は、「芸術家の熱狂に加わり、不安を理解し、作品を賞讃すること」だったのである。
ダリとガラは芸術上において理想的なパートナーシップを築き上げていくが、性的に放縦だったガラは、その後も若い芸術家と次々に関係を結んだ。男女間の結びつきが破綻すればする程、ガラはダリの中で「聖母」として描かれるようになる。
ダリは、「母よりも、父よりも、ピカソよりも、それにお金よりも、ガラを愛している」と晩年のインタビューで語っている。
創作者としては何者でもなかった彼女を、「ガラは僕の<魔法のランプ>」とダリは称し、作品には「ガラとサルバドール・ダリ」と署名された。
彼女が夢見た「夫と築く芸術」は、実人生においてこうして実現する。
ガラはその存在自体において、ダリや他の芸術家達を魅惑した「シュールレアリスムの女神」として、永遠の啓示力を放つのである。
<谷崎潤一郎と松子夫人>
谷崎潤一郎(1886〜1965、明19〜昭40)/ 谷崎松子(1903〜1991、明26〜昭49)
谷崎は最初の妻・千代を佐藤春夫に正式に譲る証文として、「余谷崎潤一郎は友人佐藤春夫に妻千代を譲り渡す」と認めた挨拶状を関係者筋に送り、世上を驚愕させた。これが文壇至上つとに名高い「妻譲渡事件」である。
遡ること五年、春夫と千代のプラトニックな関係が高まり、「秋刀魚の歌」として結実した時期、谷崎自身も千代の妹(せい子=当時は十代か其処ら)に恋慕を寄せ、結婚生活はとうに破綻していた。せい子は、「痴人の愛」のモデルと言われる、後の女優・葉山三千子である。
貞淑で慎ましい千代は、妻として理想的ではあっても窮屈でどこか物足りず、谷崎には自身の性的イマージュを刺激する、<跪いて愛を乞いたい>女性の存在が必要だったのであろう。
千代と別れた谷崎はその後再婚するが、程なく根津松子と出会い、妻とは別居し彼女と一緒になる。松子夫人こそ、谷崎が終生追い求め続けた、<白足袋の似合う美しい>理想の女性像であった。
「細雪」は、松子夫人の実在の四姉妹に起こった出来事をモチーフに、古都の四季折々の自然を絡め、詩情豊かに織りなした名作である。他にも「春琴抄」「盲目物語」など、松子夫人を得て、谷崎の創作力は古典主義的作風の開花を迎える。また、晩年には「鍵」「瘋癲老人日記」などの性欲的文学で新境地を開き、老境に至るまで旺盛な創作活動を果たした。
谷崎の芸術的インスピレーションの源は松子夫人であり、文豪谷崎が松子夫人に宛てた熱烈な恋文には、「小生にとっては芸術よりも貴女様の方が至上のものであり、芸術か貴女様のどちらかを選べと言われたら、喜んで芸術の方を捨て去るでしょう」という意味の文面が綴られている。晩年谷崎は「松に倚る」に因んで、自身の庵を「倚松庵」と号した。
<エディット・ピアフとテオ>
エディット・ピアフ(1915〜1963)/ テオ・サラボ(1937〜1967)
マリア・カラス、アマリア・ロドリゲスと共に「世界三大歌姫」と称されるエディット・ピアフは、パリの貧しい地区で生まれた。母親はカフェのシンガー、父親は大道芸人で、両親は経済的余裕がなく、幼いエディットは程なく売春宿を営んでいた祖母の元に連れて行かれる。早い時期からの娼婦や売春宿の客との接触は、彼女の人格や人生観に深い翳りを及ぼす。
ピアフの代表作「バラ色の人生」は第二次世界大戦のドイツ占領下に書かれた。ピアフはフランス人捕虜の脱走計画やレジスタンス運動にも貢献したことが今日よく知られており、多くの人が彼女によって救われた。
1940年にはジャン・コクトーが彼女のために脚本『Le Bel Indifferent』を執筆している。1947年のアメリカ初公演で大成功を収めて以来、マレーネ・デートリッヒとも知友を結 び、以後2人は生涯にわたる親友となった。
彼女は世界的歌手として大成した後、シャルル・アズナブールのデビューを援け、他にも、イヴ・モンタン、ジルベール・ベコー、ジョルジュ・ムスタキなど多くの才能を見出した。
ピアフの生涯の大恋愛は、プロボクシングの世界チャンピオン、マルセル・セルダンとのものである。セルダンには、決して別れることのない妻子がいた。2人は堅く愛し合うが、セルダンは1949年にアメリカ公演中のピアフの元に一刻も早く駆けつけようと、ピアフの懇願通りに飛び乗った飛行機の墜落により、この世を去る。
「愛の讃歌」は、2人の愛の終焉を予見していたかのように、セルダンの死の直前に発表されている。ピアフはセルダンの突然の訃報に舞台の幕を下ろすこともなく、運命的な一曲を切々と歌い上げた。
わが国では越路吹雪の歌唱による岩谷時子訳のものが一般に知られるが、原詩は愛の烈しさ、力強さに満ち、死をも超えた永遠性で胸に迫ってくる。(以下拙訳)
「あなたが望めば 宝だって盗むわ あなたが望めば 祖国も友も捨てるわ おのぞみならば あなたのために何でもするわ いつかあなたが死んでも 嘆きはしない だってわたしも一緒(とも)に死ぬのだもの そして青い空の果てで ただ二人 愛を語りましょう」
ピアフはセルダンの死後、自動車事故に遭い、その後深刻なモルヒネ中毒で苦しんだ。
正式な結婚は2度しているが、最初の夫とは1952年に結婚し、4年後に離婚している。
2人目の夫はヘアードレッサーから歌手、俳優に転身した、テオ・サラボ(通称)であった。2人はマレーネ・デートリッヒの介添えのもと、1962年に結婚した。
テオはピアフより20歳も若く、金目当ての結婚と囁かれたが、実際は薬と借金まみれで身も心もボロボロだったピアフを支え、ピアフの死後、妻の残した多額の負債を4年がかりで独力ですべて返済する。そして、やっとこれから自分の人生という時に、完済から4カ月後のこと、交通事故であっけなくこの世を去る。
テオが愛したのはピアフの才能だったろうか。あるいは、その影に潜むひとりの女性としてのピアフであったろうか。どちらにしても、掛値なく自分の全人生を捧げ、無償の愛を貫いた。
波乱の多い人生で、女としての幸せとはかけ離れた名声に彩られたピアフであったが、最期にテオの愛情に包まれ、安らかな眠りに就くという<恩寵>を授かったとしたなら、神もなかなか粋な計らいをしたものだ。
友人ジャン・コクトーは、ピアフの死が翌日公表されると衝撃を隠せず、「なんということだ」と言いながら寝室へ入り、そのまま同日息を引き取ったという。
カソリック教会のパリ大司教は、ピアフのライフスタイルゆえ葬儀におけるミサの執行を許さなかったが、葬儀には無数の死を悼む人々が列をなし、パリじゅうの商店が弔意を表し、休業して喪に服した。シャルル・アズナブールは、第二次世界大戦後、パリの交通が完全にストップしたのは、ピアフの葬儀の時だけだったと述懐している。
|