今日のテーマは「言葉の力」です。ということは、当然、「言葉には力がある」という前提のもとで話が進んでいきます。一体どんな力なのでしょうか? それは、私たちが日々遭遇する出来事や体験を変えていく力です。
生きていれば、様々な出来事に遭遇します。それらの出来事を私たちは大抵「いいこと」と「悪いこと」に分類しています。でも、実は出来事自体はよくも悪くもありません。出来事は常に中立です。
中国の古典にこんなお話があります。
ある国境近くに住んでいた若者の馬が逃げて異民族の領地に入ってしまった。人々はお悔やみを述べたが、その若者の父親は「これは福となるかもしれない」と言った。しばらくするとその馬が異民族の領地の駿馬を連れて帰ってきた。人々はお祝いを述べたが、父親は「これは災いとなるかもしれない」と言った。その家の子は乗馬を好み、落馬をして足の骨を折ってしまった。人々はお悔やみを述べたが父親は「これは福となるかもしれない」と言った。それからしばらくしてから、異民族が攻めてきて戦になり、近隣の男たちはみな戦死したが、その子は足が不自由で戦に行けなかったので無事であった。
この話のポイントは、福が転じて災いとなることもあり、またその逆もある。その変化のさまを見極めることはとてもできないくらい、奥深いものなのだ、というところです。
「言葉の力」についての考察は、まずこの前提のもとに始めなければなりません。私たちは何か出来事が起きたときに、自動的にこれはいいこと、これは悪いことというふうに反応してしまいがちですが、真実は、私たちには何がいいことで何が悪いことか、究極的にはわからないということです。これはとても大切なことです。
しかし、中国の古典ではここまでです。ここから先が「言葉の力」の出番です。わからないということを利用して、私たちは自分の人生をよりよい方向へと動かしていくことができるのです。
自分の外の世界のことを外界といいます。何か出来事が起こるときは、外界で起こります。馬がいなくなったり、他の馬を連れて帰ってきたり、落馬して骨を折ったり・・・というのは外界で起きることです。それに対し、自分の心の中の世界のことを内界といいます。外界で起きた出来事に対し、喜んだり悲しんだり、これはいいこと、これは悪いことと判断したり・・・というのは、内界で起きることです。
何かいいことのように見える出来事が外界で生じると、心は喜びを体験します。心が喜びに満たされていると、外界(特に人)に対して寛大な愛あふれる心をもって接することができるので、その人からまた親切にされるなど、よい反応が返ってくるでしょう。逆に外界で悪いことに見える出来後が起きたときには、私たちは心が暗くなり、落ち込んだり怒ったり悲しんだりしがちです。暗くなった心は、ますます物事の悪い面を見てしまう傾向がありますから、いわゆる「どツボにはまっていく」状態となり、悪い出来事をどんどん引き寄せてしまうことにもなりかねません。このように、外界と内界は互いに影響し合っているのです。
私たちが「体験を変えよう」「人生をよりよいものにしよう」とするとき、アプローチの方法は大きく言って二つあります。一つは外界を変えようとすること。もう一つは内界を変えようとすることです。一般的に言って、効果的に変えられるのは内界のほうです。自分の心の感じ方や考え方を変えるのは、実際に起きる出来事を変えるよりもずっと簡単です。たとえば、いつも気難しそうな顔をして近寄りがたく感じている人がいたとして、その人に「もっと愛想よくしてよ」と思っても、人を変えるのは難しいのです。でも「顔は怖いけどきっと優しい人に違いない、よし笑顔で話しかけてみよう」と自分の心のほうを変えるのは、自分次第でいくらでもできます。そして、話してみたら、実は気難しそうな顔をしていたのは、単に歯が痛かったからだということがわかり、腕のいい歯医者さんを紹介してあげて、仲良くなることだってできるかもしれないのです。
内界を変えようとするとき、大きな力となってくれるのが言葉なのです。言葉というのは、心のハンドルのようなものです。心というものは、放っておくと今までと同じことを繰り返そうとします。「これはいいこと、これは悪いこと」と自動的に決めつけてしまうのも、いつもの習慣に沿って勝手に心が動いているということなのです。それを、言葉というハンドルを使って軌道修正します。「こういうことが起きたけれど、これはいいことなのか悪いことなのか、自分にはわからない」と、まず外界の出来事と内界の反応を切り離します。その上で「今はよくわからないけど、何かいいことが起きているのだ」と、決めてしまうのです。え? どうして決められるの? いいのです。だって、どうせ私たちにはわからないのですから。「今はよくわからないけど、何かいいことが起きているのだ」と、まず決めてしまったら、とりあえず安心感と幸福感を得ることができます。それだけでも既にとてもいいことが起きていると思いませんか? 結局私たちは安心感や幸福感を求めて生きているわけですから。
そして、あとは「どんないいことが起きているんだろう?」という疑問を持ち、そのまま放っておけばいいのです。人の心というのは本当に不思議なもので、探すと見つかるという法則を持っています。これは人間の心の中の無意識の働きによるものです。人間の脳は「わからない」という状態は不安定で嫌なのです。だから、何か疑問を持ったら、その空白感や不安定感を埋めようとしてフル回転で働き続けます。顕在意識がそんな疑問を持ったことすら忘れてしまった後でも無意識は働き続け、あるときふとしたときに答えを出してくれたりします。「これはどのようにいいことなんだろう?」という疑問に対する答えは、ですから、忘れたころにやってきます。それも、「ああ、これか!」という明確な形で来るというよりは、「なんとなく最近いいことが多いなあ」という、微妙な幸福感として来るものです。
自分の心を変えましょう、ポジティブ思考が大事ですよ、という話を皆さんも一度くらいは聞いたことがあると思います。物事の明るい面をみよう、愛と感謝の心で物事にあたろう、というのは、幸せな人生を歩むためにはとても大切なことです。言葉には人間の心の方向を変える力があります。「なんだか疲れるな」と言う代わりに「最近充実しているな」、「あの人、とろいよね」と言う代わりに「ゆったりとしていて癒し系だね」、「ああ、私はなんて下手なんだろう」と言う代わりに「下手だけど大好きだからやめられないんだよね」というふうに、言葉の使い方をちょっと意識して変えてみるだけで、驚くほど気分が変わり、日常生活が生き生きとしたものになっていきます。
でも、いつもポジティブ思考をしなければならないと考えていると疲れてしまうのも事実です。なぜなら、人間の心の中にはネガティブな考えも実際にたくさんあって、それを無視するか、抑え込んで表に出てこないようにしないといけなくなるからです。出てこようとする考えを押さえつけるのにエネルギーをとられると、何もしていなくても疲れてしまうようになります。ですから、自分の中にネガティブな考えがあることがわかったら、まずは「ああ、あるんだな」と認めればいいのです。そのうえで、「何がポジティブで何がネガティブかは自分にはわからないのだ」と謙虚になり、「今はよくわからないけど、何かいいことが起きているのだ」という前提を思い出し、「ではこのネガティブな考えのポジティブな面はどんなところだろう」と最後は疑問形に持って行って終了すればいいのです。
自分はダメな人間だ、なんの才能もない、こんなことで人生を生き抜いていけるんだろうか、と悲観的になっている人はどうしたらいいのでしょうか。「自分にどんな才能があるのか、どんな生き方が自分に向いているのか、今の自分にはわからない」「でも、自分にはきっと何か素晴らしい才能があるに違いない、そうでなければ生まれてくるわけないじゃないか」「じゃあ、どんな才能があるのかな?」この最後の問いを空に投げかけ、後は忘れてしまって毎日できることをやっていけば、いつか必ず「おお、自分にはこんな才能があったのだ!」と感動と感謝とともに自覚できる日が来るはずです。
言葉にはまだまだ知られていない力がたくさん秘められています。今日は心理学的な側面からその一部を解説しましたが、言葉のパワーについての様々な研究書も最近は増えてきています。興味があれば、皆さんも調べてみてくださいね。
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