禁多浪先生 |
「本日は能について、知識を深めていきます。わからないことは、どんどん聞いて下さいね」 |
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一同、はーい、はーいと元気のよい返事。 |
モン太 |
「能か……ハハーン、能ある鷹は爪を隠すって言うじゃねえか。能力のことだろう」 |
クマ吉 |
「能は能でも、その能じゃねえよ」 |
ワン郎 |
「新人のぼくにも発言させて! 能書き、つまり効き目のイミでしょ?」 |
うさ子 |
「ちがうよ、皆なんでそんなにとんちんかんなのさ。能書きは転じて、自分の得意なことを吹聴するイミ。私は跳ねるのが得意!」 |
禁多浪先生 |
「やっと少し近い意味にたどりついたね。能は能でも、技(わざ)=芸能のことだよ。今からさかのぼること700年程前、足利幕府の室町時代に、謡(うたい)と踊りを含んだ劇が流行ったんだ。それを、能といった」 |
うさ子 |
「ミュージカルってこと?」 |
禁多浪先生 |
「動きはゆっくりだけど、ある意味では似ているかもね。日本の伝統芸能さ。足利尊氏(1305~1358)と同時期、今の三重県にあたる伊賀国山田村というところに、観阿弥清次という能役者がいたんだ」 |
クマ吉 |
「世阿弥のお父ちゃんだよ。世阿弥はね、足利義満将軍にとっても寵愛されたんだよ」 |
コン助 |
「なんでだろ。よっぽどの魅力があったのかな」 |
モン太 |
「きっとハンサムボーイだったんだろ、俺みたいにな」 |
うさ子 |
「アハハ、よく言うよ」 |
ワン郎 |
「(頭を指さし)ココが素晴らしかったってことじゃない?」 |
うさ子 |
「そうよね。それに、顔がかわいかったに違いないわ。何しろ役者だもの」 |
モン太 |
「うさ子は面食いだからなあ」 |
クマ吉 |
「それはさておき、世阿弥の父・観阿弥は、世阿弥が生まれた頃すでに、一座の頭(かしら)となっていた。春日神社など、大和結崎村辺りで大活躍してたんだよ。そして、京都・今熊野で能を上演した時、義満公がご覧になり、とても感動されたそうだ。その時、世阿弥は12才だったと言われている」 |
コン助 |
「今で言えば、小学生のお子ちゃまだ!」 |
うさ子 |
「まだちっちゃいね。うちの妹と同じくらいだわ」 |
モン太 |
「それにしても、観阿弥さんてえらかったんだな」 |
クマ吉 |
「将軍様が初めて申(さる)楽能をご覧になり、感動されたのがきっかけで、観世親子の運が大きく開いていったんだね」 |
禁多浪先生 |
「クマ吉君は物知りだな。観阿弥が京都伏見の醍醐寺で7日間の演能を催した時も大好評を博し、義満公は益々ご満悦で、それから能を宗教から遠ざけ、政治の力と結びつけ保護していったんだよ」 |
うさ子 |
「義満さんといえば、金閣寺を建てた人ね」 |
クマ吉 |
「そうだよ、鹿苑寺金閣」 |
ワン郎 |
「へぇ、知らなかったなぁ」 |
禁多浪先生 |
「室町時代、花の御所として有名だった処だな。だから義満公のことを、鹿苑院とも呼ぶんだよ」 |
禁多浪先生 |
「次に、当時の社会と芸能について考えよう」 |
コン助 |
「昔、歌舞伎役者が『河原乞食』と言われてたってことなら、聞いたことあるけど」 |
禁多浪先生 |
「能楽でも、『猿楽』と呼ばれていた頃は、同じような扱いだった。当時、公家たちからは“かくの如き散楽(さるがく)の者は、乞食の所行なり”とみられていた。それが彼らの苦悩でもあったんだよ」 |
うさ子 |
「そんなにさげすまれながら、よく神前で演じることが許されたわね」 |
クマ吉 |
「その頃宗教は聖なる上位にあり、芸人は卑しめられて下の位にあった。それでも宗教行事には、かかわることができたんだよ」 |
禁多浪先生 |
「能は神社で演じられて、神に奉納されていたのだ。「風姿花伝」には、“常に初心の心を忘れず”その時その花を失わぬようにその季節や場所に応じて、鑑賞眼の低い客にもなるほど面白いと感じさせるように演じること、と書かれている」 |
ワン郎 |
「初心忘れずって……禁多浪先生、もっと説明して下さいよ」 |
禁多浪先生 |
「何でも初めての時に行ったその心を忘れるなってことだ。大事なことだよ。ワン郎君も、今日初めて参加したこの時の気持ちを忘れちゃいかんぞ」 |
ワン郎 |
「はーい、忘れまへんワン」 |
禁多浪先生 |
「まだまだ話したいことがいっぱいあるけど、続きは次回にまたということで、乞うご期待!」 |