天願大介監督の新作「世界で一番美しい夜」は、映画にとっての「事件」ともいうべき、とてつもなく<荒唐無稽でファンタジックな寓話>だ。際立っているのは、その作家性である。
父・今村昌平監督との共作による「カンゾー先生」「うなぎ」「赤い橋の下のぬるい水」「11’09”01セプテンバー11」で脚本を担当。「うなぎ」は今村監督にとって「楢山節考」のグランプリ以来2度目となる、カンヌの最高賞・パルムドール賞を受賞したが、他に世界的評価も高い三池崇史監督の「インプリント〜ぼっけぇ・きょうてぇ」「オーディション」などでも、脚本家としての力量は映画通の間でつとに知られている。
自身の監督作としては、「無敵のハンディキャップ」「AIKI」「暗いところで待ち合わせ」など、これまではどちらかといえば社会の片隅におかれた人たちに光を充て、細やかに人間を見つめる作風が持ち味だった。
今回の映画は天願監督にとって、父の逝去の年に書かれた、転機であると同時に過去の集大成ともいえる一作である。
人間が裏切られた絶望から蛇になり、その蛇が「革命」を起こし、しかもそれはエロ・テロとくれば、これはもう一筋縄でいくはずがない。
縄文時代の生殖能力を甦らせる「媚薬」パワーが全開になったことで、その村は誰もが争いや憂いを忘れて愛し合い、14年後に出生率が全国一になって表彰される。
まさしくその夜、「子供たちがたった一日だけでも飢えや不安から解放されて幸せな笑顔がもてるように」との願いを込め、全世界に向けて新たな「愛の種」が蒔かれ、人々は誰もかれもSEXに溺れ果てることになるという、未だかつてない壮大で「型破り」な構想の映画だ。
「狂言回」役の女子高生・ミドリは、蛇になった主人公と天才的IQをもつがため瘋癲(ふうてん)を装う女との間に生まれたという設定で、ここでも「異種婚」、「蛇」という今村家のお家芸が、より進化した形で炸裂することになる。
また本作では、古代神話を絡ませながら「エロス」が自由奔放に描かれ、馬鹿馬鹿しくも人間の小宇宙的「営み」をどこかいとおしく感じさせるエピソードで満載だ。
淫乱な体でもって夫を2人までも死なせた自責の念から、性を「封印」することで、巫女(シャーマン)的な特殊能力をもつに至る輝子。幼馴染の彼女への想いを遂げるべく、股間による「瓦割り」に勤しむ一方、古代人の「絶倫剤」開発に余念のない革命家・仁瓶。
そして遂に「天の岩戸」のご開帳さながら、輝子の貞操帯が破られるシーンは思わず拍手したくなるほどの爽快妙味があり、エンディング近く村中の人々による、50人総出のSEXシーンも圧巻だ。
本作には今村監督「神々の深き欲望」へのオマージュが随所に見てとれるが、両者は申し合わせたごとく、他に類する耽美的作風とは一線を画している。
そこでは、女体の隅々までキャメラが執拗に舐め回すことなく、「技巧」的身振りは一切排除される。あるのは、ただ「生」と「性」の情動に衝き動かされる本能的(デモーニッシュ)な<歓び>であり、古代の神話世界にのみ可能ならしめた「原初的エロス」が濃厚に匂い立つ。
さて、エロスが主題の映画作品というのは古今東西枚挙に暇がないが、ヨーロッパ映画はヌーヴェル・ヴァーグ以降、殊に尖鋭的で難解もしくは芸術性に偏る傾向にある。
近年監督が女優達からセクハラで訴えられた「秘めごと」でも、ショッキングな映像表現以上に、退嬰的でインモラルな「関係性」が執拗に映し出されたのは記憶に新しい。
文明や経済がいきつくと、その果てにあるのは爛熟であり、遊戯化した性である。
バタイユはエロティシズムを、「死における生の現れ、あるいは、生における死の現れである」として、サドを高く評価しているが、サド文学の根幹をなすSM・乱交(オルギア)・性的倒錯・催眠状態(トランス)などは、それ自体「祝祭」的な生の極まった儀式であると同時に、死と密接に係わるものである。
生と死における両極の差異は「時間」の観念だが、それは男と女についてもあてはまる。
「女はいつまでも続くことを願い、男はぜひとも休みを入れたい。」
(アルベローニ)
<継続性(=再生)と非継続性(=無化)>の違いは、男女の差異の決定的な要因である。
男にとって狩猟とは、渇望を満たす義務的なもののみならず「お楽しみ」の時間であり、毎回獲物が変わっても一向に差し支えない。
すべての男にとっての唯一の夢とは、アルベローニも述懐するように、女の方から「悪いけどあたしと寝てくれない。ひと月以上もごぶさたで、やりたくて我慢できないの。」と身を投げ出されることであろう。しかし、こうした娼婦性はすべての女が持っているとはいえ、あからさまに剥き出しにする場合は稀である。
女は、信頼し愛する男に自分も愛されなければ気が済まず、逢っている時間が永続的に続くことを欲する。あまつさえ家や子供といった安定や保証、人生の計画までも恋愛に組み込もうとする。
換言するなら、女の愛は日々のお勝手や些細な事柄に収斂され、男の性欲は常にそこから逃れ、自由になりたがる。そこで、取りも直さず「日常」との対極にあるのが、愛人との時間であり、深く長いオーガズムの時間である。(仏語では「小さな死」を意味する[petite mort]がそれにあたる)
閑話休題、以下は天願映画のモチーフともなっている神話に目を移し、近代とエロスの相関性を考察してみたい。
ギリシャ神話では「エロス=愛・性愛」は世界の原初に<混沌=カオス>から生まれ、美と愛の女神アプロディテ(=英名ヴィーナス)の息子となった。
古代神話にあっては、性は神々の勢力を拡大し、力を誇示するものであった。大神ゼウスの無節操は、結婚の女神である正妻ヘラをもってしてもとどめるべき術がない。
また、古代社会では、出産は豊饒な実りであり、豊作を願う祈りと結びついていた。
ゼウスと農耕の女神デメテルの娘コレーは、冥界の王ハデスに強奪されて妻に迎えられ、ベルセポネとなるが、死の国の柘榴(ざくろ)を食したため、1年の3分の1は冥界に暮らさねばならなくなる。ベルセポネが冥界にいる時、地上は母の悲しみで凍てつき、戻ってくるといっせいに喜びの実りを迎えた。こうして季節が生まれた。
日本神話では、イザナギ命・イザナミ命が名を呼び合った(=求婚)後、子作り(国造り)に励んでカグツチ(火の神)を産み、イザナミは死ぬ。妻を召し返したいと決意したイザナギは、黄泉の国へ降りていく。
「死の国の食物を摂ったら死の国の住人」という件(くだり)のみならず、無事連れ戻せることになったイザナギが「中を見るな」という約束を破るエピソードはまさに「オルフェ」と<合わせ鏡>であり、この辺りの神話の一致性にも大いに興味を惹かれるところだ。
結界から出られなくなった女が、「愛しい男よ、約束を破ったつぐないに、私は今後1日1000人の人間に死を与える」と言うと、「愛しい女よ、ならば私は今後毎日1500人の人間を世に産み出そうぞ」と男が唱和する場面は、実におおらかで美しい。
憎み畏(おそ)れていても、まず「愛しい」と呼び合う、日本神話の心の豊かさが伝わってくるようだ。
ギリシャ神話の中で、パンドラの匣(はこ)のエピソードに象徴されるように、この世の悪はすべて女によってもたらされ、女という存在がある限り苦労が尽きないという教訓は、いかにも神話の語り部が男性であったことを物語っている。
ゼウスが、勝手気儘をしても正妻には頭が上がらず、エロスが母にだけは決して逆らえないという性格設定にも、古代ギリシャ人の「洞察力」の深さが窺い知れる。
女は「誘惑者」であると同時に、万物を呑み込み、<無>から<有>を産み出す性であったのだ。
一方、日本神話では、「女性」性はさらに優位に位置づけられる。
アマテラスとスサノオの権威争いの際、アマテラスの玉から男の子が、スサノオの剣からは女の子が生まれたことを承けて、女の子という「善い存在」を産むのは、汝が正しい心をもっていた証と称えている。
日本における古代の「女性崇拝」性は、太陽神が女性にあったことにも起因していよう。
さて、洋の東西を問わず、多神教の根本には、<自然界の力への畏怖心>がある。
古代のアミニズム信仰において、「時間」とは生命を育むものであり、太陽の運行とともに在った「円環的時間」であった。
近代、科学や産業の発展に伴い、人間の生活はますます自然のリズムからは乖離(かいり)した、「直線的時間」に支配されるようになる。
プロメテウスの「火」は、人間に自立と繁栄の一方、自滅への可能性をももたらしたと言えるだろう。浅はかな人間に「火」(=叡智)を与えると碌(ろく)なことにならぬというゼウスの予想は、もてる能力を濫用する人間の愚かさを看透すかのようである。
パンドラの匣を開けてしまった人間は、諸悪から逃れられぬという罪過を背負うが、しかしすべての悪いものが出尽くした先に、最後に待ち受けているものは「希望」である。この救いがあるから、私達は生きていけるのだろう。
「世界で一番美しい夜」では、原始人間が「火」をもつシーンに始まり、「火」を知った人間が原初まで立ち戻ったならどうなっていくのかという、奇跡的なエンディングに還りつく。映画自体が「円環的」構図を果たしながら、監督の企みを超えた地平で、「祈り」が映し出されているかのようでもある。
神話につきものの「蛇」によって革命がおこされ、それは誰も死なないテロであって、<気持ちイイ、充足的な時間>が人々を幸せにするという、馬鹿馬鹿しくも壮大な「エロス的夢想」―――同時にそれは、次世代の子供たちを生み出す「未来」へとつながるものなのである。
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