①滝沢馬琴を知っていますか?
滝沢馬琴は江戸時代後期を代表する②戯作者(作家)です。馬琴といえば③『南総里見八犬伝』が有名ですが、今日は「八犬伝」に勝るとも劣らない傑作(けっさく)「弓張月」を紹介しましょう。
「弓張月」は、正式の題名を『椿説弓張月』といいます。椿説(ちんせつ)とはめずらしい説という意味で、弓張月(ゆみはりづき)は弓の弦(つる)を張ったような形の月のことですが、ここでは弓の名人である源為朝(みなもとのためとも)を象徴しています。
この作品の主人公である源為朝は、伝説の英雄です。また、悲運の英雄でもあります。
悲運の英雄というと、すぐに思い浮かぶのが源義経ですが、為朝は義経の父義朝の弟ですから、義経の叔父にあたります。
同じ悲運の英雄といっても、義経と為朝とではタイプがちがいます。義経は、鵯越(ひよどりごえ)の逆(さか)落としや、屋島への急襲、壇ノ浦(だんのうら)の戦いなどをみてもわかるように、天才的な戦術家ですが、武勇はさほどではありません。
これに対して為朝は、正真正銘の武勇の人です。なかでも弓の腕前ではならぶ者のない名人でした。為朝の左の肘(ひじ)は、生まれつき右よりも少し長かったといわれています。このため、普通の人よりも強い弓を引くことができたようです。
為朝は、源氏の④棟梁、源為義(みなもとのためよし)の八男に生まれました。八番目の男の子という意味で八郎と呼ばれ、自らは八郎為朝と名乗りました。幼少のころから剛勇(ごうゆう)の気性(きしょう)をあらわし、兄を兄とも思わないふるまいが多かったので、家の秩序を重んじた父の為義によって九州に追放されてしまいます。
ところが為朝は、⑤肥後の豪族の婿(むこ)となり、周辺の豪族を切り従えてしまいました。驚いた朝廷は、都にもどるよう為朝に命じましたが、為朝は聞き入れません。このため、父の為義が官職を解かれてしまいました。やむなく為朝は都にもどりましたが、ちょうどそのころに保元(ほうげん)の乱が起こり、父とともに崇徳上皇(すとくじょうこう)方に加わることになりました。
合戦は、夜討ちを主張した為朝の策がいれられず、為朝の奮戦(ふんせん)むなしく上皇方が敗北しました。為朝は⑥近江に逃れてしばらく隠れていましたが、やがて見つかって捕らえられ、伊豆大島に流されました。一命を助けられたのは、人々が為朝の武勇を惜しんだからだとされています。
為朝は、大島でもおとなしくはしていませんでした。島民たちを従え、周辺の島々を征服して、思うままにふるまっていました。このため、嘉応(かおう)2(1170)年、朝廷より追討(ついとう)の軍勢が大島に送られました。追討軍に攻められた為朝は、自害(じがい)して果て、32歳でその生涯を終えました。
ここまでが、歴史上の人物としての為朝です。けれど、伝説の勇者としての為朝は、大島では死なず、追討軍の攻撃を逃れて島を脱出し、はるか⑦琉球(沖縄県)まで行って大活躍するのです。
この為朝伝説に目をつけたのが、滝沢馬琴です。馬琴は、さまざまな文献や資料にあたり、また、伝説や言い伝えなどにも目をくばり、雄大な構想のもとに『弓張月』を書き上げたのです。
『弓張月』は、為朝を中心に展開する波乱万丈の冒険物語です。
女ながらも武芸に達者な為朝の妻、白縫(しらぬい)。礫(つぶて)を投げさせれば百発百中の腕前を持つ八町礫(はっちょうつぶて)の紀平治(きへいじ)。数奇な運命にもてあそばれる琉球国の王女、寧王女(ねいわんにょ)。妖術をあやつる曚雲(もううん)国師など、多彩な人物が登場し、さまざまな怪異も描かれます。現代的な言い方をすれば、ファンタジーの要素もたっぷりとはいっています。
『弓張月』は、文化4(1807)年に発表されるや大評判となり、当時の大ベストセラーとなりました。そのめくるめく面白さは、今日でも失われていません。機会があったら、ぜひ読んでみてください。 |