TOP
本学院について
ふくろう博士の日本家庭教師センター学院の強み
お問い合わせから授業開始までの流れ
授業料について
よくある質問PDF
資料請求・お申し込み
ご家庭からの声
ふくろう博士シニアのプロフィール
学院長のプロフィール
家庭教師登録
お問い合わせ
ふくろう博士のe-講座
月例研修会
懐かし〜えむ
理想の家庭教師像アンケート調査
お問い合わせ
サイトマップ
プライバシー保護に関する方針
受験生の強い見方、e-講座
ふくろう博士TOP
>
ふくろう博士のe講座
>
2005年度のe-講座
> 第45回 国語『詩は心のスパイス(創作の扉を開いてみませんか)』
≫本 文
≫宿 題
上の二編の詩は、特に深い意味が込められている訳ではなく、文字の配列と言葉遊びを考えながら、どちらも風呂の中で、7〜8分で作ってみたものです。
小難しい理屈はヌキに、楽しんで見てもらえれば一番なのですが、強いて一言だけ述懐するならば、詩全体を宝石のカットであるオーバル(楕円形)に見たて、金剛石(ダイヤモンド)の輝きのような‘永遠の’愛とその不可能性を、甘やかな過去の想い出ごと、宝石箱の中に蔵(しま)い込んでしまおう、というのがそのココロです。
猫の詩は、特に解説の必要などないでしょう。
詩とはこのように、作り手と享受する側が、自由に想像力を羽ばたかせる、‘イマジネーションの交感’なのです。ですから、誰でも詩は書けますし、またそれをどう読むかも自由です。
私はプロの詩人でも文章家でもありませんが、文学の中でも殊(こと)に短詩型のもつ形式美や響きの良さに魅かれ、自分でも時折短歌や俳句などを気の向くまま詠んでみたりもします。
一人の人間の生きてきた歴史には、人の数と同じだけ、まさにその人だけの物語やドラマがあるといわれます。まして、ふと胸によぎる想いや感情の昂(たか)ぶりを表白するのが‘歌’であるなら、誰か歌心をもっていない人などおりましょうか。
人は何故、文章を書くのか、詩や歌を詠むのか。
スタンダールの墓
碑
銘に刻まれた、「書いた、愛した
、生きた
」という彼自身の辞世の句に、その答えを探ることも可能でしょう。
自分の生きてきた何らかの足跡をこの世に遺したい、そう思って我々の幾多は、先人の仕事に負けまいと努力する一方、遺伝子を継ぐ子供に夢を託すのかもしれません。
文章を書くには相当のエネルギーが要るので、文筆家には多少なりとも精力旺盛で、グルマンの気味があるというのも頷(うなず)ける処ですが、実は、人間の本性である快楽欲求が容易に満たされ難い、疾風怒濤(=シュトルムウントドランク)の青春期に芽生えた、悶々とした鬱屈こそが後々の創作行為につながっていく大きな原動力であるのは、どうやら間違いなさそうです。誰だって、恋愛について考察したり、食通の本を書いたりするよりも、実際に恋愛したり美味しいものを食べたりする方が、百倍も楽しいのは言うまでもないことですから。
しかし、切なく美しい思い出も、素晴らしい記憶も、いつかは色褪せ薄れてゆく時がきます。そこで人は‘書く’という行為に幸福の余韻を求めるのです。
自分ひとりの一回性の経験を、時間と場所を超えて限りなく多くの人に共感してもらえること、また、幾千年もの数多(あまた)の人生にめぐり逢えること───書くこと、そして読むことの一番の恩寵(おんちょう)は、言ってみればこの「拡充作用」にこそあるのではないでしょうか。
私は、国語の真髄というのは、言葉で人と人との接木(つぎき)作用を果たすことだと考えています。家族や友人間だけでなく、世代と世代、時代や国境を超えて結び合う‘生命のリレー’をつないでいくのも、やはり言葉の力なのです。
愛や思想を語る重い言葉だけが詩とは限りません。何でもない表現や遊びの中にも、切り取り方次第で詩の素材となる言葉はいっぱいあります。
皆さんも、自分なりの工夫や面白い発見があったら、スナップ風にメールでも送りあう感覚で、是非それを書きためていってはいかがですか。世界に一冊しかない、あなただけのとっておきのアンソロジーが完成する日を指折り待つのは、ベアトリーチェ(=ダンテの‘永遠の恋人’)を待ち焦がれるよりも、きっとはるかに楽で実りある収穫をもたらすことでしょう。