TOP
本学院について
ふくろう博士の日本家庭教師センター学院の強み
お問い合わせから授業開始までの流れ
授業料について
よくある質問PDF
資料請求・お申し込み
ご家庭からの声
ふくろう博士シニアのプロフィール
学院長のプロフィール
家庭教師登録
お問い合わせ
ふくろう博士のe-講座
月例研修会
懐かし〜えむ
理想の家庭教師像アンケート調査
お問い合わせ
サイトマップ
プライバシー保護に関する方針
受験生の強い見方、e-講座
ふくろう博士TOP
>
ふくろう博士のe講座
>
2004年度のe-講座
> 第39回 国語『民衆に愛された悲劇の英雄-源義経の人気にせまる-』
≫本文・問題
≫解 答
≫宿 題
源平の争乱は、平治の乱(1159年)からはじまって、壇ノ浦の平家滅亡(1185年)で終わりをつげました。この間、多くの人たちが活躍しましたが、主役といえば、
?
平清盛、源頼朝、源義経
の3人にしぼられるでしょう。このなかで、わずか30年の短い生涯でしたが、激動の時代を風のようにかけぬけて、歴史に大きな足跡をのこした義経こそ、源平争乱の真の主人公といっていいかもしれません。
清盛は、「意志の人」でした。強い信念にもとづいて、こうと思ったことを妥協せずにどこまでもつらぬいていきました。そのためにいろいろと誤解され、また敵も多かったのですが、そんなことにはかまわずに、自分の意志に多くの人をしたがわせました。
頼朝は「運の人」といっていいでしょう。池の禅尼(ぜんに)の命ごいによって助かったときから、頼朝の「運」ははじまりました。その後も、北条氏とのむすびつき、石橋山の戦いでの梶原景時の見逃しなど頼朝の運はつづきます。そして、源氏の棟梁(とうりょう)であるという立場と、「運」がむすびついて、権力者にのしあがりました。
このふたりに対して、義経は「情の人」というイメージでしょうか。義経は、頼朝を兄として慕い、自分はあくまでも弟としてふるまいました。そのことが、頼朝自身や頼朝にしたがう者たちの反発をかったのです。頼朝にとっては、義経は自分の兄弟であっても、ひとりの家来にすぎず、頼朝にしたがう者たちにとっては、義経も自分たちと同じ立場に立つ者でした。頼朝を頂点とする幕府という組織を保っていくためには、そうしなければならなかったのです。
義経には、そのことが最後まで理解できなかったのでしょう。あるいは、理解したくなかったのかもしれません。あくまでも「情」を重んじ、「情」にすがり、そのことが悲劇につながったのでした。
義経は、昔から人気のある英雄でした。平家をほろぼすという大きな仕事をしながら、むくわれず、兄の頼朝に追いつめられて最期をとげるという悲劇的な生涯が人々の同情をよび、
?
「判官(ほうがん)びいき」
ということばが生まれたくらいです。そして、その「判官びいき」が大きくふくらんでいって、義経は平泉で死なず、衣川の館から脱出して逃げのびたという伝説が生まれました。
生きのびた義経は、津軽海峡を渡って北海道に上陸し、アイヌの人たちに歓迎されたというのです。今でも北海道のあちこちには、義経神社や義経が住んでいた館跡というものがのこっています。さらにおどろいたことに、義経は北海道からシベリアに渡り、ついにはモンゴルにたどりついてジンギス・カンになったという説までとなえられました。
こうした伝説が生まれた背景には、義経に死んでほしくないという人々の思いがあります。
?
義経は、人々の心の中に生きつづけている英雄なのです。
清盛や頼朝にはこのような伝説はなく、また、人々の心の中に生きつづけるということはできませんでした。それは、清盛も頼朝も人々を支配する権力者だったからにちがいありません。
権力に関心を示さず、「情」に生きた義経だけが、時をこえて人々の心の中に生きつづけることができたのでした。
[問題]
上の文章を読んで次の設問に答えなさい。
問題 1
筆者は
─線?
の3人をそれぞれどんな人といっていますか。
文中のことばで答えなさい。
問題 2
義経はなぜ頼朝の反発をかったのですか。40字程度で書きなさい。
問題 3
─線?
とは、不遇な者に同情することですが、
この文章では具体的にどのような内容を指すか答えなさい。
問題 4
─線?
義経はなぜ人々の心の中に生きつづける英雄となったのか、
その理由を「から」に続くかたちで文中から書きぬきなさい。