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> 第33回 国語『文士の心中』ー愛の極致としての死ー
≫本 文
≫宿 題
ネット心中という現象の内に潜む空疎な連帯感情に、言い知れぬ「わからなさ」を覚えてしまうのは、死出という本来は厳粛であるべき「ハレ」の儀式が、乱交的なノリで軽んじられているように思えてならないからであろうか。
一緒(とも)に死すべき必然性のない人間同士が偶々(たまたま)寄り集まり、時と場所を重ねて同時に死を選んだ場合に、彼等彼女等の孤独には些(いささ)か共鳴できるとしても、そうした集団的リセット行為を「心中」などという言葉で呼ぶことには、戸惑いを禁じえない。
「新明解国語辞典」の定義によると
[もと、相愛の男女が変わらぬ愛情を示し合う意] 親の反対が有ったりしてこの世で添えないことを悲観した相愛の男女が、せめて来世では一緒になろうと、同時に自殺すること。情死。[広義では、生活に困って、同一家族の者が一緒に死ぬことをも指す。また転じて、あるものに入れ揚げて、死ぬまでそのものから離れられない意にも用いられる。例、「純文学と_する」]
心中した作家として最も有名なのは太宰治であろうが、太宰の場合は「人間失格」で表白されたように「生まれてきてスミマセン」という「恥」の意識が根底にあり、そもそもがとにかく死にたかったのである。彼は若い頃にも二度心中未遂事件を起こしており、このうち一度は相手の女性だけが死んでいる。最終的に、二度目と同じく玉川上水に入水(じゅすい)、三度目は心中に成功するも、相手の女性には気の毒だが、愛ゆえの心中というよりは自殺幇助(ほうじょ)の道連れにされたといったほうがより正鵠(せいこく)を射ていよう。水死というのは、意識がある者にとっては想像を絶する最期というが、太宰本人は薬で眠ったとしか思えないような安らかな死に顔で、相手の女性に死の敢行全てを引き受けさせた事の証(あかし)に、断末魔の形相で死に至らしむという残酷を強いている。たとえそれが女性の方からの望みであったにせよ、そこまでの優しさに甘えるということが、真に愛する女性に対してできるだろうか。否、この男が愛したのは、果たして自分自身ですらもなかったのではという疑念が拭いきれない。
ところで、鋭敏な感受性が先走る十代の頃、誰しも一度は「夭折」という言葉に、どこか憧れに近い感情を寄せてかみしめたことがあるのではなかろうか。才能と前途ある若者が志半ばにして不慮・非業の死を遂げるのは、銀幕のスターでもJ.ディーンや赤木圭一郎、M.モンロー、J.フィリップと枚挙に暇(いとま)がないが、いずれの御方も神に愛されすぎた宿業によって、永遠の美と若さを人々の脳裏に焼き付けている。
「夭折」「早逝」という言葉がふさわしいのは、二十代からせいぜい三十代までだ。四十代以降になると、肉体は衰えの兆しをみせると同時に、思想的にも円熟期を迎える。もはや青年期のように、無軌道に突っ走るエネルギーはない。しかし、それでも心のどこかにロマンチシズムは残る。恋愛でいうなら、最後の熾火(おきび)というやつだろうか。そこを過ぎると兼好が言ったように、生への執着や老醜が忍び寄ってくる。だから身も心も盛んな壮年というのは、意志をもっての自死や心中に踏み切れるぎりぎりの季節(とき)ではないかと思えてならない。
例えば三島由紀夫が割腹自殺を遂げたのが昭和45年、享年45歳。三島の自決は政治的プロパガンダに歪められる条件が備わりすぎているが、正(まさ)しくは文学上の死であり、失われんとする日本的美学との心中とみたい。
もう一人、大正12年に45歳で生を閉じた白樺派の作家、有島武郎。
有産階級に生まれ、小作人に農地を開放。人道主義的作家として知られるが、その本質は「白樺」の明るさとは異質な「激情的」性格にあり、日本の土壌には稀有なダイナミズムを備えた本格的リアリズム小説を生み出した。
『或る女』
は、<葉子>という主人公(モデル)を通して女性のヒステリーの一典型を描き切ったことでも、また葉子自身の人生及び三姉妹の中に、ギリシャ神話の三美神像〈処女(をとめ)、女盛り、老婆〉の三変相を暗示させている点においても、今日的に見てもっと評価されるに足る新しさを含んでいる。
有島が病身の妻を出産の衰弱後亡くした経緯(いきさつ)は、身辺的断章である
『小さき者へ』
によってよく知られるが、その後、独り身でいたところ、運命の女性、婦人公論記者の波多野秋子と出会う。彼女は美貌の人妻であった。
現代と違い、姦通罪というものが存在し、男の浮気は公然と認められたが、妻の浮気は重罪であると同時に、相手の男性の社会的死をも意味した時代。秋子の夫は代償に10万円の金子(きんす)を要求し、有島としては払えない金額ではなかったが、愛する女性を金に換算する屈辱には耐えられぬと、死をもって贖(あがな)うことを決意する。
遺書は次の通りである。
「・・・僕はこの挙を少しも悔ゐず唯十全の満足の中にある。秋子も亦同様だ。・・・
山荘の夜は一時を過ぎた。雨がひどく降ってゐる。私達は長い路を歩いたので濡れそぼちながら最後のいとなみをしてゐる。森厳だとか悲壮だとかいへばいへる光景だが、実際私たちは戯れつゝある二人の小児に等しい。愛の前に死がかくまで無力なものだとは此瞬間まで思はなかった。
恐らく私達の死骸は腐乱して発見されるだらう。」
日本の遺書史上、また愛を綴った書簡を数えても、比類なき凄みをもった名文だ。
二人の遺体は、作家の覚悟の予言どおりひと月後に腐乱して発見されることとなる。
最後に、秋子と知り合う直前に書かれた
『惜みなく愛は奪う』
より、有島の思想の在り処(ありか)を探ってみたい。
_愛は本能である。・・・私の愛は私の中にあって最上の生長と完成とを欲する。私の愛は私自身の外に他の対象を求めはしない。私の個性はかくして生長と完成との道程に急ぐ。然らば私はどうしてその生長と完成とを成就するか。それは奪うことによってである。愛の表現は惜みなく与えるだろう。然し愛の本体は惜みなく奪うものだ。
_個性はその生長と自由とのために、愛によって外界から奪い得るものの凡(すべ)てを奪い取ろうとする。愛は手近い所からその事業を始めて、右往左往に戦利品を運び帰る。個性が強烈であればある程、愛の活動もまた目ざましい。若(も)し私が愛するものを凡て奪い取り、愛せられるものが私を凡て奪い取るに至れば、その時に二人は一人だ。そこにはもう奪うべき何物もなく、奪わるべき何者もない。
だからその場合彼が死ぬことは私が死ぬことだ。殉死とか情死とかはかくの如くして極めて自然であり得ることだ。
_愛が完(まっと)うせられた時に死ぬ、即ち個性がその拡充性をなし遂げてなお余りある時に肉体を破る、それを定命(じょうみょう)の死といわないで何処(どこ)に正しい定命の死があろう。愛したものの死ほど心安い潔い死はない。その他の死は凡て苦痛だ。それは他の為めに自滅するのではない。自滅するものの個性は死の瞬間に最上の生長に達しているのだ。即ち人間として奪い得る凡てのものを奪い取っているのだ。個性が充実して他に望むものなき境地を人は仮りに没我というに過ぎぬ。