受けます。彼には、七年に一度救済を試みることが許されています。そして七年目のある時、ノルウェーの港に流れついたオランダ人は、財宝めあてに宿を提供した男の娘(ゼンタ)に恋します。オランダ人の愛の告白に心取り乱したゼンタは、別に自分に心寄せる男からの求愛を拒みますが、オランダ人は自分もゼンタに棄(す)てられると結論づけ、出帆(しゅっぱん)します。しかし、ゼンタは、崖の上から彼に向かって身を投じ、ついにオランダ人の罪の救済は果たされ、二人が共に天に向かって舞い上がっていくところで、幕は閉じます。このオペラのテーマは、女性の献身的愛と犠牲的死によって罪を受けた魂が救済され、二人の霊魂は天上において永遠に結ばれるというものです。
ヴァーグナーの別のオペラ「トリスタンとイゾルデ」では、神話時代コーンウェルのマルケ王の花嫁となるはずのイゾルデが、トリスタンに恋したけれども求愛を斥(しりぞ)けられ、彼を道連れに毒をあおって死のうとするのを、侍女の計らいで毒が愛の秘薬にとって代わられ、二人はそれを飲んで激しく愛し合うようになります。マルケ王の留守にトリスタンと逢引をするイゾルデ。二人の恋人が情熱の限りを尽くして、過酷で偽りに満ちた昼の国を離れ、真実の夜の国をめざしていく辺りは、全旋律を通じいやが上にも恍惚(こうこつ)としたエクスタシーが高まり、いつ果てるともしれぬ性愛のシーンを想起させます。王は悲しみにうちひしがれ、トリスタンの裏切りに怒りを向けることもできないのですが、王の忠実な僕(しもべ)に挑まれたトリスタンは傷を負い、現れたイゾルデの腕の中で息絶えます。イゾルデは今やトリスタンの傍(かたわ)らで、死という深い夜の世界においてやっと愛が成就されることを歌います。イゾルデの最後の独唱は、現在一般に〈リーベストート(愛の死)〉の名で呼ばれていますが、ヴァ―グナー自身は最初序曲の方を〈愛の死〉とし、最後のアリアを〈浄化〉と命名しました。
さて、日本語でこの「愛死」に通底する言葉といえば「情死=心中」でしょうか。
心中について話を移す前に、我が国では、恋愛という一対一の男女の精神的な関わりを意味する概念が生まれたのは、キリスト教文化が移入された明治時代になってからのことでした。それ以前、男女の恋は色好みであって、平安朝の貴族社会にあっては、和歌のやりとりにみられるような恋のかけひき、遊戯的性格も強く、またもっと以前の万葉集や古事記の中においては、ギリシャ神話と同様に、性というものは非常に大らかなものとして肯定的に描かれており、タブーなどというのは実の親子と同腹の兄妹姉弟間という限られた中にしか存在しなかったのです。しかし、恋を規制する要因が少ないということは、それだけ一人の相手をつなぎとめておくのが難しいということになります。一夫多妻、通い婚という現代とは異なる結婚形態の中で、結婚生活における女性の不幸や、愛情をかけてくれぬ男への恨みつらみを、これでもかとばかりに表出してみせたのが、『蜻蛉(かげろう)日記』や『源氏物語』の閨秀(けいしゅう)作家達ではなかったでしょうか。
ところで、作者の意図したものと、作者の実現してしまったものとの間には、ずれや剥離(はくり)があるのも然るべきです。中世以来、源氏物語の研究者には儒家・仏家が多く、源氏物語の価値を認めるがゆえに、いわゆる好色物語として伝播(でんぱ)されるのを忌(い)み、宇治十帖における〈道心〉がことさら重く扱われてきたようです。だが、果たして薫はジッドの『狭き門』に比肩(ひけん)されるごとき高い宗教性を有した人物像として描かれているのでしょうか。私にはとてもそうは思えません。むしろ読者は、薫をめぐる恋情の停滞する描写をもどかしい思いで読みながら、源氏物語の世界に一貫して流れている愛の主題が、薫においてどう変奏されていくかということに、最も興味を覚えるのではないでしょうか。よしんば薫という人物に、『紫式部日記』に吐露された作者自身の内面―――厭世(えんせい)的仏道帰依(きえ)の心ばえが仮託(かたく)されているのを充分に認めるとしても.
作者は、正編で激しい情動に衝(つ)き動かされ、幾多の女人(にょにん)を愛しながら運命に翻弄(ほんろう)されていく光源氏を理想的主人公として描き出しましたが、薫からはそうした天与の資質を一切剥奪(はくだつ)しています。薫は、自らの出生自体が罪であることを贖(あがな)うかのように、現世を否定して生きる言わば‘愛の不能者’(吉本隆明)としておかれます。愛〈エロス〉の衝動を持ち得ない薫は、どんなに願ったところで愛を成就するに至りません。薫の道心は、垣間見(かいまみ)によって脆(もろ)くも崩れ去るところからも明らかなように、宗教的高みにまでは到達しえないものなのです。薫にとっては、道心の世界はおろか愛すらも、所詮憧憬の対象としかなり得なかったのではないでしょうか。そのことが大君(おおいきみ)の早逝(そうせい)を招き、延(ひ)いては中君(なかのきみ)・浮舟(うきふね)をも不幸に陥(おとしい)れていったように私には思えてならないのです。作者は薫に不義の子、生まれつき厭(いと)われた子という原罪意識を背負わせるにあたり、源氏がかつて藤壺との間に犯した罪の因果応報を当然頭においていたでしょうが、読み手にはそうした仏道思想以上に、薫の存在自体のかなしみが強く胸に響いてきます。源氏の君は母性的なものを求めるがゆえに、罪を犯してなお女人を愛してやまないのですが、生を享(う)けた途端に母から嫌悪され、母性の拒絶に遭(あ)った薫の一生は、はるかに暗い様相を呈しています。母から疎(うと)まれ現実の欲動に身を委(ゆだ)ねられぬ薫にとっては、世人には異質な宇治の侘(わび)しい山里や八宮(はちのみや)の高潔な暮らしぶりこそ、「帰属」という本能の向かうべき対象として切実な重みを持ったのではないでしょうか。
「橋姫」における垣間見によって、性格悲劇とも運命悲劇とも分かち難い終章へと向かう糸が織りなされていくわけですが、一つ忘れてはならないのは、何故作者が宇治十帖の終わりまできて〈物思う女〉を登場させたかということです。大君も中君も浮舟も、かつて絶対の一夫多妻制に安住していられた〈待つだけの女〉ではありません。男の好き心に煩悶(はんもん)するよりも、生涯独身で静かに暮らす方を望み、自ら選びとった宿命的な孤独の中に身を投じていく―――それはある意味で悲しい選択といえるのかもしれませんが、女性が自分の意志をもって生きる途(みち)が許されていなかった時代に、自己の生き方を貫いたというところに、「宇治十帖」が近代小説の名で呼ばれるに価する真のゆえんがあると思うのです。
本題に戻り、「愛死」につながる日本語の「心中=道行(みちゆき)」とは江戸時代、身分違いの恋や多くは遊郭を舞台にした文学の中で頻繁に登場するテーマです。
浄瑠璃、歌舞伎などで相思相愛の男女の駆け落ち、情死行の場面を「道行」といい、「相対死(あいたいじに)」などとも呼ばれますが、近松門左衛門の名高い世話物の道行文は、縁語・掛詞・序詞などの修辞を多用し、和漢七五調でつづられた流麗な、韻律の美しい文章です。
死をもって愛を貫く、スタンダード悲恋といえばこれ、『曽根崎心中』の一節から繙(ひもと)いてみましょう。
「此の世のなごり、夜もなごり、死(しに)に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ、あれ数ふれば暁(あかつき)の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生(こんじょう)の鐘のひゞきの聞きをさめ、寂滅為楽(じゃくめついらく)とひゞくなり」
水上勉氏の『近松物語の女たち』によれば、荻生徂徠(おぎゅうそらい)がここの件(くだり)を読んで思わず本を投げ出し、「近松の妙味はこのなかにある。ほかのことは問うにはおよばない」と嘆息したといわれます。当代の哲学者を讃嘆せしめた名文は劇作としても、元禄十六年五月の竹本義太夫の初演以来大当たりをとり、経営不振にあった竹本座を復活させます。
見処は、遊女お初が結婚を誓った徳兵衛の立場が悪くなる一方なのを悟り、縁台に腰かけたまま周囲に気付かれぬよう、足の動きで「死ぬる覚悟が知りたい」と訴えた際に、切なる問いかけを了解した徳兵衛が、お初の足首を自分ののど笛にあてて、死の覚悟を伝えるという、足で恋情を表現した場面です。女形が足で迫真の演技をみせる、歌舞伎作品中唯一の絶品といえるでしょう。
オペラと歌舞伎は、発祥年代も極めて酷似(こくじ)しており(どちらも起源は1596年、現存する最古のものは1600年)、また大衆の娯楽欲求を満足させる、贅(ぜい)を凝らした総合芸術という点でも同じです。
そして、ギリシャ悲劇や能の世界ではしばしば観念的に扱われる愛(エロス)と死(タナトス)を、真っ向から純一に美なるものとして形象化してみせ、憂き世に暮らす私たちを一場の夢の世界へと誘(いざな)ってくれるものなのです。―――虚構であるという約束事の上に成り立った、美しいひと夜の絵巻物―――愛が奏でる妙なる音の調べと夢のようにゴージャスな舞台、オペラや歌舞伎に酔う醍醐味は正しくこれに尽きるでしょう。
ところで、我々は夢と現実を切り離すことで、平素精神のバランスを保っていますが、時として虚構を打ち破り、愛(エロス)と死(タナトス)を突き詰めた結果、作品のみならず実人生においてもLiebestod(情死)を実現化してしまった文学者もいます。
次回は、近代日本における恋愛事件史をとり上げ、文士の心中を考察していくことにしましょう。 |