小学1年から15年間も見続けた獣医師への夢は、獣医師の国家試験に合格することで実現するはずでした。しかし、私は大学5年の時にすでに、獣医になることはあきらめかけていたのです。私が望んでいたのは獣医としてアフリカで野生動物に関わることでしたが、それを実現するために要する果てしない道のりを思うと、断念せざるを得なかったのです。アフリカで獣医師になるためには、日本の獣医師の資格は役に立たないので、新たにケニアにあるナイロビ大学の獣医学部に入学して、卒業後に異国の国家試験に合格することが必要でした。さらに野生動物に関わるには、現地の人でさえも難しいと言われる国家公務員試験にもパスしなければなりません。それ以前に、言葉の問題もあります。それらのことを総合的に判断して、アフリカで獣医師になりたいという夢は、「絵に描いた餅」のようなもので、非現実的なものに思われてきたのです。アフリカにこだわらずに、日本で獣医師になるという道もありました。巷にある動物病院で3年間代診医として研修し、個人で動物病院を開業することも出来たからです。しかし、私は獣医師になる道をきっぱりと断ちました。犬や猫などの小動物を診る町の獣医になりたいという気が起きなかったからです。
そこで頭に浮かんだのが、父の跡を継ぐことでした。父が家庭教師派遣の学院を経営していなかったら、または高額な授業料が必要な最高ランクの家庭教師の先生方の指導を受ける経済的余裕がなかったとしたら、自分の実力に見合った二流、三流の大学に進学していたかもしれません。しかし、恵まれた環境にあった私は獣医大学に合格し、さらに獣医師の免許を取得しました。この獣医師免許は、仮に家庭教師派遣業が自分に不向きで合わなかったとしても、安心して全力でチャレンジできる保険の代わりにもなる一方、その先の人生を考えた時に、目の前に継ぐべき仕事があるということは、私にとって意味のあることでした。ふくろう博士2世になることが運命づけられているように思えたのです。私よりはるかに優秀で、父がひそかに跡を継がせようと思っていた姉が外国人と結婚し、父の思惑が外れたことも、私の決心を後押しするものでした。
これが、獣医師から教育分野へと人生の舳先(へさき)を転換した、私の偽りのない理由です。このことはもちろん、父の強制ではありませんでした。あくまでも私自身が選択したことです。家庭教師派遣業は私にとっては全く未知の世界です。その未知の世界に向かって歩み出すことに、私は静かな闘志を燃やしていたのです。挑戦者でありたいと思っていました。そのことは挑戦し続けている父の姿を見て育ったことにも関係があるかもしれません。父は学院のことを日夜考え続けていて、新しいアイデアが湧くと、夜中にでも起き出して、 それを実現するためにはどうすればよいかを一睡もしないで考え、考えがまとまると、即実行する人でした。そして、一つ事が達成されると、また新たな目標を作って、それを達成するというように、常に飽くなき挑戦を続けていました。もちろん、失敗することもありました。しかし父は、するか、しないかを決める時に、退く道を選んだことは一度もありませんでした。チャレンジャーであり続けたのです。私にとっては獣医師になることより、ふくろう博士2世として生きることの方が容易だとも思えないことは明らかでした。2世に対する社会の風当たりも強いことも覚悟の上でした。だからこそ、挑戦したいと思ったし、やってみる価値があると思ったのです。
獣医師にとって大事なことは、動物の心を読む感性があるかないかということです。獣医師は、言葉を話さない動物の病気を診断し治療をします。そのため、日頃から動物の立場になって物事を考えることが必要になってきます。また、動物好きであるとともに人間も好きでなければなりません。それは、特に小動物臨床の場合、飼い主の誤った飼い方によって病気になることが多く、そのことは飼い主の考え方や性格の問題とも深く関係してきます。ここで獣医師は、言葉を話さない動物の立場になって、 飼い主の誤った考え方、つまり性格をも治すのです。だから、獣医師は人間も好きでなければならないのです。当然、私も動物好きですが、同様に人間が好きで、人間に興味があります。さらに言うと、学院は、未来に向かって羽ばたこうとしている子どもや若者達の夢の実現を後押しする会社です。私や教育相談員の先生達、家庭教師達とのよい出会いがあれば、生徒の未来も明るいものになっていきます。「よい出会いは人の一生を左右する」と言われていますが、「日本家庭教師センター学院のプロ家庭教師と出会ってよかった」と、生徒や保護者から思っていただけたら、それこそが私にとって大きな喜びになるに違いないと思ったのです。
余談になりますが、大学5年で獣医師の道をあきらめた私のその後の大学生活、獣医師国家試験に合格するまでのことにも、少しばかり触れておきたいと思います。父の跡を継ぐ決意を固めた私は、大学で勉強する意味を見失いかけていました。それでも、かろうじて大学に踏みとどまったのは、獣医になりたいと思っている人だけが集まる大学であり、仲間がみんな同じ方向を向いていたため、「よし、それなら自分も」と思えたからです。動物の病気や症状に合わせて日中だけでなく、夜中の12時でも実習が入ったりしましたが、 それも努力や、忍耐力を養うのに役に立ったと思っています。ところが、大学を卒業した年に受けた獣医師国家試験では、ものの見事に不合格になってしまいました。合格率も80パーセント以上で、ふつうに勉強していれば受かるというその試験に落ちてしまったのです。私は打ちのめされ、大きな挫折感を味わいました。それまでは、何やかんやと言っても、本当の努力や苦労をしてこなかったことにも改めて気づかされました。一念発起した私は、それからの1年間は、獣医師国家試験に向けて死に物狂いで勉強しました。大学の図書館にこもって、ノートに重要事項をまとめて覚えたり、大学の附属病院の検査室で血液検査をするなど現場のことも実習したりして、それまで24年間生きてきた中で最大限の努力をしました。この時ばかりは家庭教師に頼ることもしませんでした。獣医師国家試験に対応できる先生がいなかったこともありますが、自分の力でやりとげたいと思ったからです。こうして私は、翌年、獣医師の国家試験に合格し、獣医師の資格を取得することが出来たのです。
私がふくろう博士2世として学院を引き継ぐ決意を固めた時、父は無言で頷いただけで、特に何も言いませんでした。それでも、父の顔を見て、喜んでくれたことだけはわかりました。1994年、私は父が経営する日本家庭教師センター学院に新入社員として入社しました。当時の学院は、池袋のサンシャイン60ビルと新宿の百人町で事業を展開していて、サンシャイン60ビルには受付、企画部、編集部等があり、父も毎日通っていました。一方の百人町にはやはり受付、総務部、経理部があり、元校長・大学教授などが務める教育相談員が45名ほどいて、ご家庭からの相談や依頼の電話を受けていました。どの部署もオールマイティーに経験するようにという父の方針から、私は百人町に出社し、教育相談員の先生達に同行し研修することから始めました。家庭教師を依頼するご家庭は、万全ではなくて何らかの問題を抱えているため、過去に私が優秀な生徒でなかったことが幸いして、生徒の気持ちを掴める相談員として、ベテランの相談員の先生から評価されました。私が子どもと動物とは相通じるものがあると感じ、生徒の無垢な心をキャッチする感性を持っていたからかもしれません。また、「ふくろう博士のプロ家庭教師は高いけど、それだけの価値はある」と私自身もプライドを持って仕事をしたので、契約高でもそれなりの成果を上げていました。
入社して3年目の1996年になると、学院はサンシャィン60ビルと百人町のビルを総合統一し、JR中野駅の近くに自社ビルを購入し、そこに移転しました。これにより、教育相談員をはじめとする学院の職員達も全員中野で働くようになり、私も毎朝父と一緒に出勤し、一日中同じ場所で顔を合わせるようになりました。自宅にいる時も怖い父でしたが、学院長としての父はそれ以上に怖くて、学院の職員も相談員の先生達、時々学院に顔を出すプロ家庭教師達もみな、父の前に出ると緊張しているのがわかりました。父に向かって反対意見を言える人はほとんどいなくて、私はそれをいい事だとは思わなかったのですが、あえて逆らうことはしませんでした。“ふくろう博士”として世に知られ、家庭教師派遣業界で確固たる地位を築いてきたと自負している父に、若輩者で実力もない私が何を言っても太刀打ち出来るはずもないと思ったからです。しかし、父は他人の意見に全く耳を貸さない人間かというと、そうではありませんでした。筋が通っていれば、あっさりと自分の意見を引っ込め、それを修正して新たな考えを編み出す人でもありました。また、ある意味では反対意見を言う人の方を信用していたようにも感じられました。息子の私から見た父は、チャレンジ精神旺盛な努力家で、アイデアマンであるということでしようか。経営者として見た場合は、カリスマ経営者と言えるかもしれません。私も常にチャレンジする人間でありたいと思っていますが、父のように次から次へと新しいアイデアは浮かばないし、カリスマ性があるとも思えません。父のことをよく知っている方々から見れば、ふくろう博士2世である私のことを物足りないと思う方もおられると思います。しかし、私には、父からの強制ではなく、長年の夢であつた獣医師への道を自らの意志で閉ざし、ふくろう博士2世として生きる決意をしたという自負があります。それは安易に選んだ道ではないからです。
私が入社した1994年は、経営サイドから見ると1991年をピークに業績が落ち込んでいて、今後いかに盛り返していくか、歴史と実績のある学院をさらに発展させていくか、その真価が問われる時期に来ていました。だからこそ、挑戦したいと思ったし、やりがいも感じていたのです。父の重圧があることは確かですが、私はそこから逃れようとするのではなく、父のよい点は 見習いながら、私は私のやり方で、目の前にいる生徒やその保護者、さらには学院のために懸命に働いてくれている教育相談員やプロ家庭教師達を大事にして、父の時代とは異なった“開かれた学院”にしていきたいと固く心に誓っていたのです。
さらに私は、父がパーソナリティを務めていた、ラジオたんぱ(現ラジオNIKKEI)の『チャレンジ禁多浪』(多浪を禁じる、「第一志望校に絶対合格するぞ!一浪もしないぞ」の意味で、受験生を応援する番組)を、1994年10月から引継ぎ、2000年3月に終了するまで、ラジオ放送界でも珍しい獣医師がパーソナリティを5年近く務める番組として定着させました。週に1度のこの番組では、毎回、各分野で活躍されている方や、無名であっても目標に向かってチャレンジしている方々をゲストに迎え、いろいろなお話をお聞きしました。
当時、私の出身大学の麻布大学の附属病院臨床部長の小方宗次先生@をゲストとして迎え、「獣医学の最前線」のお話をお聞きした時には、胸が躍りましたし、ふくろう博士2世になったからこそ、実現できたことだと改めて実感しました。パラリンピックの水泳選手で何度も金メダルを取った成田真由美さんA、43歳で筑波大学大学院に入学し、「夢は教授レスラー」と語っていた今は亡きプロレスラーのジャンボ鶴田さんB、 世界初の北極海単独横断に成功した冒険家・大場満郎さんC、「人はこれほどの努力を運という」と色紙に書かれた幻冬舎の見城徹社長D、人間は学習することで人間たりうるという信念で、学習を人生の全体像の中に位置づけた上で合理的勉強法を追求する “野口理論”を教え、目からウロコの落ちる 「超勉強法」の著者で、一橋大教授の野口悠紀雄先生Eなど、数えあげたら切りがないほど多くのゲストの方々から、生き方やチャレンジ精神を学びました。それらの方々との出会いを私の財産としながら、事務局長・副学院長を経て、2000年、私は日本家庭教師センター学院の学院長になったのです。
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2008年、10月に亡くなった母は、本当にやさしい人でした。もともと、母には恵まれない境遇にいる人や、弱い立場にいる人たちを思いやる気持ちがあり、私はそんな母の影響を受けて育ちました。それだけに、足の不自由な私のことで、母が心を痛めていたことは十分に想像できました。時には、母の私への労わりに反発を感じることもありました。かばってもらいたいとは思いませんでしたし、特別扱いもされたくないと思っていたからです。 振り返ってみれば、怖い父とやさしい母でバランスが取れていたのかもしれません。息子の私から見ても父は、良くも悪くも個性が強い人なので、母は大変だったと思います。父が新しいアイデアを出す度に、母は内助の功を発揮して、それを実現するために力を尽くしたり、時にはブレーキ役になったりしていました。決して表に出ることはなく、父から一歩も二歩も下がって、父と学院を陰で支えていました。言葉にこそ出しませんでしたが、それは父が築いた学院を私に受け継いでもらいたいという強い思いがあったからだと思います。
1996年、学院は中野の自社ビルに所在地を移しましたが、その頃から、母は父や私と一緒に毎日のように学院に通って来るようになりました。気さくな性格でもあった母は、職員や教育相談員の先生達とも和やかに話しながら、その時々に必要とされる仕事を淡々とこなしていました。学院の仕事と家庭との両立は楽ではなかったと思いますが、むしろ母は生き生きと楽しそうにしていました。特に学院では、父には話しにくいことでも、母になら話せるという職員や先生達も多かったので、その役割を母は進んで担っていたのだと思います。そんな母も、私が学院長になった頃から体調を崩して、自宅で父の介護を受ける身になりました。これまでの気丈でやさしかった母の姿は影を潜め、マイナスばかりを口にしたり、落ち込んでいることが多くなりました。そんな母を心配して、父は学院には出勤しないで母の介護に専念するようになりました。母も父のことを頼りにしているようでしたが、「迷惑ばかりかけて」と自分の存在を否定するような言い方をすることもしばしばありました。いつも自分のことは置いておいても、身内や他の人のために生きてきた母ですから、自分がやってもらう立場になってしまったことがつらかったのだと思います。
私はどちらかというと、父より母の方に似ていると思います。一番似ていると思うところは、堅実なところです。関わった人たちを大切にしながら、地道にコツコツと堅実にやっていく――― それが、ふくろう博士2世として出来る、亡き母への親孝行だと思っています。