ここでは、二代目ふくろう博士こと古川隆弘を知っていただきたいと思います。
1969年3月9日生まれで、2020年で51歳になりました。埼玉県与野市(現さいたま市中央区)で、父である初代ふくろう博士古川隆(のぼる)と、母弘子の長男として生まれました。
祖父・倉持秀峰が名付け親の「隆弘」という私の名前は、父と母から一字ずつ採ってつけたように思われがちですが、実は、私の生まれた当日の読売新聞に掲載された「大河内貫主迎え月例法要」という記事が偶然、祖父の目に留まって「大河内隆弘上人」のお名前をいただき命名されたものです。大河内貫主とは、小石川にある浄土宗の名刹「伝通院」というお寺の貫主で、淑徳学園の理事長でもありました。「伝通院」には、徳川家康の生母於大の方や、千姫(豊臣秀頼の妻、2代将軍・徳川秀忠の長女)など徳川家ゆかりの女性の墓が数多くあり、将軍家の帰依も厚かった由緒あるお寺でした。ところが、第二次世界大戦で建造物すべてが焼失してしまい、戦後多くの困難を経て、本堂を再建したのが73世「大河内隆弘上人」だったそうです。また、隆弘上人は、日中国交正常化後、「日中友好宗教者懇話会」の副会長として、日中交流にも尽くしたといいます。
私には5歳上の姉がいますが、私が生まれた時には、父はすでに現在の「日本家庭教師センター学院」の前身である私塾「和光学院」を与野市(現さいたま市中央区)で開いていました。ところで、私は父からの遺伝病のために、傍から見ると足が不自由に見えます。母はそんな私を気遣い、いろいろと心配していたようですが、私は両親の大きな愛情に包まれて、幼稚園から大学を卒業するまで伸び伸びと過ごし、小学1年の時から「大きくなったらライオンやチーターを診る獣医になるんだ」と、夢を膨らませていました。
私は、幼稚園が大好きでした。それは母が書いていた日記からもわかります。
『行きたいな〜、幼稚園』
朝、目覚めると、
隆弘「幼稚園、やすみ?」
母「そうよ」
隆弘「あしたも、幼稚園、やすみ?」
母「そうよ」
隆弘「あしたも、あさっても休みなの?」
母「夏休みといって、ずーっと沢山休みがあるのよ」
隆弘「どうして?」
母「とっても暑いから、暑い間、お休みするの、お姉ちゃんの学校も同じよ」
隆弘「ヤダナー、幼稚園いきたいな〜」
(母の「観察日記」73年8月1日)
小学校時代の思い出は、何と言っても、小学1年の時に、父のふくろう博士が主催する「アフリカ冒険旅行」に参加したことでした。ムツゴロウ博士こと畑正憲先生も同行されましたが、このアフリカでの経験が、私に獣医師になる決心をさせたのです。
『アフリカぼうけん学校』
鈴谷小学校1年1組 ふるかわたかひろ
(第1日目)
ぼくは、いま、おとうさんとおかあさんとおねえちゃんと、四にんでアフリカへいきます。うれしいことがあります。
それはどうぶつをみにいきます。
おとうさんに、ポケットカメラをかってもらいました。そのアフリカがたのしみです。
きょうのひこうきは、はじめてです。
(第8日目)
きのう、しらないホテルにとまりました。
ぼくは、しまうまのたべられるところをみました。
それから、チーターとライオンのおすとめすをみました。そのホテルに、まいばんアフリ力ぞうが、水をのみにきます。ぼくは、びっくりしました。
(子と母の記録「アフリカ冒険学校」より)
『のどのくすり』
鈴谷小学校1年1組 ふるかわたかひろ
おかあさんは、やっきょくへいって、あめみたいな「のどくすり」を、かいました。
おとうさんが「あめのくすりをつくろう」といったので、ぼくは、「つくったら、じっけんしないと、しんじゃうかもしれない」といいました。
そして、ぼくは「さるにたべさせろ」といいました。
おとうさんとおかあさんは、おなかをかかえてわらいました。
『小さな親切』を受賞したチビ先生
鈴谷小学校4年4組 古川隆弘
4月27日、田村君が自分の家の近くで交通事故にあい、片足をけがしました。そしてぼくの家の近くの長島病院に入院しました。
入院が長くなると、勉強がおくれるので、担任の秋山先生が、毎日学校が終わってから病院に行って、勉強をおしえていらっしゃいました。
ぼくは、その話を聞いて先生がとても大変だと思いました。
田村君は、ぼくの友だちなので、ある日先生に、「ぼく、手伝います」と言ってみました。
すると、先生は、「じゃあ、君にまかすから、がんばれよ」とおっしゃいました。
「はい」と言いました。
その後、ぼくは、できるかどうか不安になってしまいました。でも、言ってしまったので、 最後までやらなきゃだめだと思いました。
6月から病院に行きました。
どんなことを教えたかというと、ノートを見せて、学校でやったことをいっしょに勉強し たり、先生からの連絡を話したり、宿題をいっしょにやったり、算数の問題を作って、いっしょに考えたりしました。
いつも、勉強が終わったあとは、必ずスーパーカー消しゴムで、レースをして遊びました。
そういう日が、何日も続きました。そして先生がぼくを「チビ先生!」と、じょうだんで呼びました。そのとき、いい気持ちがしました。
7月ごろ、田村君は良くなって退院しました。7月3日の朝会で、校長先生が、いい行いの話をするとおっしゃいました。
そして、校長先生が、
「4年の何組かの子で、車にひかれて、長島病院に入院していて、そこのクラスの子が、 その子に学校であった事を毎日教えているという話を聞いた」とおっしゃいました。
ぼくは、その話を聞いて、胸がどきっとしました。そして、さきに、小池君を呼び、みんなの前に出て賞状をもらい、その次に、ぼくを呼びました。賞状と「小さな親切」のバッジをもらいました。ぼくは、そのとき、「小さな親切」をしたことがわかりました。ぼくは、 いちばん印象に残っています。
(おわかれ文集『太陽』より)
小学生当時、当学院パンフレットの表紙に生徒として協力
学年が進むにしたがって幼い頃に抱いていた夢はあこがれに終わり、より現実的なものへとシフトしていくのが一般的だと思いますが、獣医師になりたいという私の気持ちに変化はありませんでした。その頃、父はふくろう博士として世に広く知られるようになり、家庭教師派遣業界でのリーダーとしての地位は揺るぎないものになっていました。また、父が経営する学院も創立20周年を迎えるまでになっていましたが、「自分の好きなことをやれ、親のあとを継ぐことなど考えなくてもよい」というのが父の意見でした。小学校卒業間近の3月、学院の創立20周年記念式典・祝賀会が帝国ホテルの孔雀の間で開かれた時のことです。司会の団しん也さんに、将采の希望を聞かれて、何の迷いもなく、「獣医師か、動物研究家になってアフリカへ」と答えています。続いて、「それじゃ、何か動物の鳴き声を」と促され、大声で「アウ、アウ」とアシカの鳴き声の物まねをしました。 満場のお客さまから、大喝釆があったことは、今でもなつかしい思い出です。
『今日の「ぼく」』
与野市立南中学校2年8組 古川隆弘
今日のぼくを、ふりかえって考えてみた。
ぼくは、五体満足で生まれてきて、小学校4・5年生のとき軟骨が手や足の一部にでる病気をもつことになった。そして、今ぼくは、その病気を持ってよかったと思っている。
それは、ぼくよりひどい病気を持っている人の思いが人一倍わかる。そのつらさ、いたみがわかる。ぼくは手術を4回ほどしているからだ。
もし、今のぼくが健康だったら、今までの心が生み出されていないだろうと、感じるのだ。
これも、ぼくを産み育ててくれた両親のおかげだ。よく鼻が低いだの、頭が悪いだのと親の責任にし、親を悩ませる。
ぼくは、決してそんなことはしない。まだまだぼくよりも、ひどい人がいる。その人のことを考えると、とてもではないけど言えない。両親にもうしわけない。
この間、ぼくのクラスに病気で背がのびない女の子が泣いていた。話によると男子がけなしたというのだ。ぼくはその話を聞き人間のやることではないと思った。もし、自分がそんな立場ならと思ったらできないはずだ。
ぼくは、心にいいきかせる。
「ぼくより、ひどい病人がいる。その人のためにも、今日もガンバルゾ」と・・・。
『中学で得たもの』
与野市立南中学校3年9組 古川隆弘
一生のうちで最後の義務教育“中学”。今、私はその最後の義務教育“中学”を終えようとしています。そして私は中学三年間で何か人生に重要なものを得たと思っています。
まずその一つは、「何事も集団行動」ということです。義務教育のうちでも小学校は、行動から外れても、先生から軽い注意ですむかもしれません。しかし、義務教育でも中学校では、行動から一人でも外れたら、外れた一人だけではなく何十人の人まで響いて来るのです。このように集団とは時計のように一つでも歯車がないと動かないように、次に行動へ移れないということです。これが、“集団行動”なのです。
もう一つは「自習」です。中学では、中間、期末と範囲が広い。小学校は、テスト前日にやることはできました。しかし、中学では、常日ごろからの“自習”が必要なのです。“自習”それは、自分だけの力で勉強することなのです。
算数も数学という文字に変わり、社会も地理、歴史、公民と分かれ、まったく新しい英語も加わりました。どの教科も内容が濃くなり、いわゆる「最後の義務教育」という言葉にあてはまるでしょう。
私は、最高学年になり、あと三ヶ月ぐらいでこの中学を卒業します。中学で得たその二つは、これから、なんらかの形を持ってまた現れるでしょう。そして高校でも何か多くのものを得て、大学、社会・・・などでより多くのものを得たら、りっぱな人間になると思っています。
(1984年/与野市立南中学校第22回卒業生『飛翔』より)
高校は埼玉県の蕨市にある私立武南高等学校に入りました。ここで楽しい高校生活を送りながら、一方で、獣医師になりたい気持ちは変わらずに持ち続けていました。ここでもう一度、獣医師になるきっかけをつくったアフリカ旅行のことを、思い出しながら書いてみました。小学1年の時に書いた作文と読み比べていただいてもおもしろいと思います。
『アフリカ旅行が獣医師志望のきっかけをつくった』
あのとき、私は小学校1年生だった。父のふくろう博士が主催する『アフリカ冒険旅行』に参加して、ケニアを訪ねたのだ。ムツゴロウ博士こと畑正憲先生も同行された。
飛行機が首都ナイロビに着陸したとき、くらくらと目まいがした。姉などは私のおぼつかない足どりを長旅による疲れのせいにしたが、そうではない。野生動物の宝庫を吹きわたる風になぶられ、あこがれの大地を踏んだ興奮がそうさせたのだ。
だが、私はいいわけをしなかった。言葉を探すよりも、早く動物達を見たかった。とにかく、む、ああ、うん、という感嘆詞しかでてこないのだからしかたがない。そんなもどかしさを追い越していくかのように、赤道直下の風景がぐんぐん広がる。
その熱病のような気分が爆発したのは、レイヨウ類のトムソンガゼルがチーターに襲われるのを目撃したときのことだった。
ガゼルの四肢は細く、走る姿はこのうえなく優美だ。そのガゼルの群れが逃げる。ものすごい土ぼこりで、あたりが黄色くなる。
と、一頭が遅れはじめた。そこにチーターが跳ぶ。ガゼルは転倒した。二度、三度と細い四肢を天に突き上げる。
その一瞬、風景がもとに戻った。
こんなにも太陽がまぶしいのに、誰もこの殺りくをとがめない。また、誰もとがめることなど出来ない。私は打ちのめされた。
自然の輪というもの、生命の尊厳というものに圧倒されたのだ。そして、野生動物を守りたい、生態や個体調査する研究者でなく、目の前の動物の病気を直接診断し治療がしたいと、そのとき心に決めたのだった。
『卒業生の言葉』
武南高等学校3年K組 古川隆弘
ガルウィングのドアを開けたら、そこは6年後の世界だった。
もっと頑張れ!ペットブーム!!
(生徒会発行『漣11号』より)
その当時、タイムトラベル映画の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(Back to the Future)が人気で、カモメの翼を広げたようなドア(ガルウィングドア)が特徴の、デロリアンという車がタイムマシンでした。また、1984年に4年制から6年制へ移行されたばかりの獣医大に入学が決定し、周囲もまだ6年一貫教育の認知度が低かったので、タイムマシンで飛んだ大学卒業後の時代でも、獣医師の仕事は人気があってほしいという願いから考えた言葉です。
●そして、ついに私は長年の夢であった獣医師になるために、第一志望の私立麻布大学(神奈川県相模原市)への合格を勝ち取ったのです。
次回は、私の大学合格体験記です。