2010年、日本家庭教師センター学院は創立50周年を迎えました。学院を創立したのは、もちろん、 父・初代ふくろう博士であり、家庭教師派遣業界の“生みの親”として、その地位を揺るぎないものにしたのも父であることは、多くの方々の知るところだと思います。そこで、ここでもう一度、私・二代目ふくろう博士が、父の足跡を辿ってみたいと思います。
父は1934年生まれで、幼い頃から身体が弱く、祖父母は父を育てるのにかなり苦労をしたようです。どこそこにいい医者がいると聞けばそこへ連れて行ったり、いい薬があると聞けば高いお金を払って買ってきたりして、普通の子どもを育てる倍以上のエネルギーを注ぎました。小学校4、5年の時に患った原因不明の奇病により、足が不自由になったことも関係していたと思います。祖母は それについては、父がかりんとうが好きで、ご飯代わりにかりんとうばかり食べていたからだと本気で言ったこともあったそうです。父は、身体が弱く自分が人並みでないというところに劣等感をもっていたそうです。遠足、運動会、修学旅行など、身体が弱いために悔しい思いや寂しい思いも味わったそうです。
性格的には何事にも消極的で引っ込み思案であり、人に影響されやすかったといいますが、生前の父の姿からは想像出来ないことでした。勉強も怠けがちで、高校受験間近まで遊びほうけていて、学校の補習授業をさぼっては映画館通いなどに明け暮れていました。当然のことながら、成績も悪く、祖父から「高校には行かなくていい!家から出て小僧になって働け!」と叱られ、やっとのことで栃木県立栃木商業高校に入学したそうです。
父の父親、つまり祖父が悪性のガンで亡くなったのは、父が高校3年の2学期のときでした。その頃にはもう父は健康体になっていましたが、逆に祖父が身体をこわして、あっという間に亡くなってしまったそうです。祖父は死ぬ間際に、父を枕元に呼びよせ、将来の身の立て方について話したと言います。「おまえは薬剤師になれ、自分のためだけじゃなく、世の中のためにもなる」そして、「世の中を自信を持って渡れ。人さまに出来ることが、お前に出来ないことはないのだから…」と言ったそうです。祖父の言葉は父の心に強く響き、それからは心を入れ替えて薬科大学を目指して猛勉強を始めました。商業高校だったので、物理や生物、地学などは授業科目になかったのですが、これはすべて独学で勉強しました。そして2年後、父は17倍の競争率を突破して、見事、明治薬科大学に合格したのです。父にはハンディキャップがありました。身体が弱くて人並みに運動が出来ないこと、高校は商業高校で進学校ではなかったこと、受験科目が必修ではなかったことなどです。しかし、父はやり遂げました。人はどうしてもハンディキヤップがあると、やる前から「できるはずがない。やってもムダだ」とあきらめてしまいがちですが、父は、「やれば出来る。努力すれば必ず出来るようになる」と思ったそうです。それどころか、ハンディキャップとはかえって人を前進させるエネルギーになると、確信出来たと語っていました。
明治薬科大学を卒業し、薬剤師の国家試験にも合格した父は、当初の目標を達成したかにみえました。折しも父が大学を卒業した1958年の春は、天皇陛下と美智子皇后のご婚約のニュースで日本中が湧き立っていたといいます。念願の薬剤師免許を手に入れた父でしたが、そこで迷ったといいます。免許は持っていても、それが活かせるのは病院の薬剤師になるか、薬局を開いて一生平凡に暮らすかのどちらかしかないと思ったら、その先の人生がつまらないものに思えてきたのです。それでも、条件が良く将来性のある就職先を探し回りましたが、目ぼしいところはなく、大学のときに学友会誌「賢者の石」の編集長を経験したこともあって、医学関係の出版社に就職しました。
同じ頃、父に見合い話が持ち上がりました。相手は埼玉県蕨市にある和光幼稚園園長・倉持秀峰の四女の弘子、すなわち私の母でした。母はそのとき宝仙学園短期大学保育科を卒業して、北浦和駅東口の伝統ある幼稚園で先生をしていました。そして短い交際を経て、父は大学卒業1年目にして、母弘子と結婚することになったのです。父は初対面の時から母のことが気に入ったようですが、一方には母の父親であった倉持秀峰の存在も大きかったと思います。それだけ祖父は偉大な人だったといいます。
私が幼い頃に祖父は亡くなっているので殆ど記憶にはありませんが、ここで祖父、倉持秀峰のことについて少し書いておきたいと思います。祖父は埼玉県蕨市にある由緒ある寺、三學院の住職でした。本尊の木造十一面観世音菩薩立像(像の高さ五尺五寸の一本造り)が平安中期のものであることや、1573年に賢寛に地蔵院流実勝方を付法した賢広法師を開基とすると伝えられていることから、中世以前の創建と考えられています。また、三學院は、1591年に徳川家康から寺領20石を寄進する旨の朱印状が授与され、以後徳川歴代将軍からも同様の朱印状が与えられたといいます。祖父は、僧の最高位である大僧正で、1955年からは真言宗智山派の管長を4年間勤め、 埼玉県仏教会長、全日本仏教会副会長の要職も歴任するなど、仏教界で活躍しました。そんな祖父でしたが、管長時代には管長ぶらない野人管長と呼ばれ、誰にでも親しみをもたれる人柄で、人格者だったと聞いています。祖父の功績として特筆できるのは、「西遊記」の三蔵法師のモデルになった玄奘法師の頂骨の一部を、日本仏教界を代表して中国側から受け渡され、日本に持ち帰ったことでしょう。玄奘三蔵法師は、経典を求めて一人でタフラマカン砂漠を歩き、雪と氷に閉ざされた厳寒の天山山脈を越えてインドに辿り着き、仏典を収集しました。玄奘のインド・西域への旅は実に3万キロにも及び、唐を出発してから17年の歳月が経っていたといいます。帰国後は63歳で死去するまで経典の翻訳に励み、翻訳した経典の数は1300余巻にのぼっています。日本で最も読誦される「般若心経」も、三蔵法師が翻訳した「大般若経」が基になっています。三蔵法師の霊骨は、祖父に護られて無事に仏教会本部(芝増上寺内)に安置されましたが、折しも空爆が激しくなり、その時、安置を承諾していた上野寛永寺も危険であることから、終戦を迎えるまでの間、一時、三學院に奉安したといいます。その後、祖父の提案で、三蔵法師ゆかりの長安の大慈恩寺からその名を拝したさいたま市の慈恩寺に奉安されました。祖父と三蔵法師とのご縁はそれだけに留まりませんでした。1955年、中華民国の蒋介石総統から分骨の要請を受けて、祖父は仏教親善使節団長として台湾を訪問し、玄奘法師の分骨を奉持し、国際親善の一助を果たしたといいます。祖父が台湾に滞在した10日間は、中華民国仏教会などから盛大な歓迎を受け、蒋介石総統も宋美鈴夫人と共に、官邸において晩餐会を催してくださったそうです。また、三蔵法師1300回忌に当たる1963年には、祖父の申し出により、慈恩寺で大法要を営んだといいます。この他にも、三蔵法師と祖父に関することについては、多くの文献が残っていて、右に述べたことはこれをもとにして、あらましを綴ってみました。祖父は、1972年に81歳でその生涯を閉じましたが、三蔵法師の霊骨が納められている台湾の玄奘寺には、祖父の遺影と分骨も納められています。それから20年近くを経た1991年、玄奘三蔵法師が建立したと言われる西安の大慈恩寺に、 父のふくろう博士も参拝しました。父は母と結婚したことで、祖父と巡り合えたことを、何ものかに感謝したい気持ちだと述べていました。
さて、医学関係の出版社に就職した父ですが、上司と意見が合わずに辞めてしまったといいます。その後、自分で出版社をつくって仕事を始めたのですが、資本金もゼロだったことからうまくいきませんでした。一方の母にしてみれば薬剤師と結婚するつもりだったのに、出版社の社員となり、程なくしてそれも辞めて新しい事業に手を出したのですから、不本意だったに違いありません。それでも母は 愚痴一つ言わなかったそうです。
それどころか、父がどうにもこうにも身動きがとれなくなって、その会社をあきらめようとしたとき、母が実家からお金を借りて来たそうです。それも祖父が風呂に入っているとき、 背中を流しながら頼んだといい、当時のお金で30万円(現在800万円)だったそうですから大金です。それを元手にして、「新薬大辞典」という本を出版したのですが、これは大失敗に終わりました。そんな中での新婚生活だったので、米びつはいつも空っぽ、インスタントラーメンの時代ではなく、コッペパンばかりを食べていたドン底生活だったそうです。このように父は何かにつけて独断専行の傾向が強くて、その度に母は苦労したようですが、母の内助の功があったからこそ、父は自分のやりたい仕事が出来たのだろうと、息子の私は想像しています。