Mちゃんを紹介されたのはMちゃんが中2の秋のことでした。海外生活が長かったせいか国語力が不足していること、一人っ子で内向的であること、学習に対する自信がなく、学習習慣の見直しと忍耐強い対応が望まれることなどを、教育相談員の先生から一通り説明を受けました。私は自分が海外からの帰国生だったこともあり、海外在住経験のある子を担当させていただくことが多いのですが、その他にいわゆる勉強の苦手な子、学習意欲が高くない子を見ることも多いです。そんなわけで今回もじっくり腰を据えた指導をせねば、という気持ちで始めました。
お母様はMちゃんの勉強の遅れを心配しておられ、家庭教師をつける前に、専門機関による心理発達度テストを受けさせていました。それによると、Mちゃんは言語を通しての理解・表現能力と、ワーキングメモリーという集中や記憶に関する能力が平均よりやや低く、それが学習への障害になっている可能性があるとのことでした。一方、絵や図など目で見たものを処理し操作する感覚推理という能力は平均より高く、総合的には平均的な水準にあるということです。
この診断結果を事前にいただいたことで、私のほうでも指導方法をあらかじめ考えることができました。言語理解が苦手で感覚推理が得意なのであれば、言葉でどんどん説明するのは控え、なるべく図式を使って視覚的に訴えつつゆっくりと説明しよう。集中と記憶が弱いのであれば、いっぺんにたくさんのことをするのではなく、思考や作業行程を細かく分けて一つ一つ確認していこう・・・。ただ、診断が出たからと言ってそれにとらわれすぎるのもよくないと感じました。子供の発達は個人差が大きいし、この先何がきっかけで大きく変化していくかわかりません。あくまでもそれは参考資料として活用するにとどめ、常に目の前のMちゃんを見て合わせていこうと思っていました。
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授業を始めたのが10月でした。学校の授業の補習と定期試験対策を中心課題とし、基本的事項の内容理解と習得を目指しました。数学・英語・国語の3科目を見ていたので、問題集を解きつつ、どうしてもやっておかなければならないことをフォローするだけで2時間はあっという間に経ってしまいます。
授業を始めてから気づいたのですが、Mちゃんは内向的というよりも、授業中にほとんど言葉を発しないのでした。家族にはよくおしゃべりをするということなので、典型的な内弁慶です。一人っ子で、自分が積極的に何かを表現しなくても、お母様が先回りして何でもわかってくれるからそうなのかなと思いました。私が説明をし、「ここまでいいかな?大丈夫?」と聞くと、ほとんどの場合、かすかに首をかしげるだけでした。その首のかしげ方と表情の微妙な具合で「なんとなくわかったような気もするけれども今一つ自信がない」「あまりわかった気がしない」「まったくわからない」のうちどれにあたるのかを、こちらが判断しなければいけません。
Mちゃんは勉強について自信がないので、自分が「わかった」と言ってしまうことを恐れているのかなと思いました。「わかった」と言ってしまうと、次に同じ問題で間違えたら困ってしまう、と考えているようなのです。こういう子は実は結構います。なんとなく「わからない」というもやもやした感覚の中に常に浸っており、そこから出るのが億劫だという感じ。このように「理解する」ということへの心理的抵抗がある場合、どこまでやってもすっきりと理解したという状態にはなりません。まずはこの心理的抵抗を軽減することが必要でした。
人の学習能力はその人の意識の状態、つまり心の状態に左右されます。何か新しいことを学ぶことを好ましい刺激と感じるか、新たな負荷と感じるか。心配事やストレスでいっぱいのとき、人の心はそれ以上新しいことを学ぶ余裕など持てないのです。逆にリラックスして楽な精神状態のとき、人は学ぶことを最大限楽しむことができます。先の心理発達度テストによれば、Mちゃんは緊張が高く、慌てたり緊張すると本来の実力が発揮されないことが考えられる、とのことでしたが、それは授業中のMちゃんの様子からも感じられました。
11月半ばから、試験での緊張対策という名目で、自律神経訓練法を授業に取り入れました。目を閉じて楽に座り、呼吸を意識し、体の各部分に意識を移しながらリラックスを深めていく訓練で、瞑想の基本形です。瞑想は心を落ち着け、普段は気づかない緊張や疲れやストレスに気づき、そこから意識的に心と体を解放するテクニックです。日常生活にストレスがあふれている現代人なら必ず身に着けておいて損はないテクニックなのですが、宗教との関連などで誤解されていることも多いので、導入には注意が必要です。実はMちゃんの指導を始めた頃から必要だと思っていたのですが、まだ知り合って間もない家庭教師からいきなり瞑想を教わったとなると、生徒もご家族も何事かと怪しむかもしれないので、お互い少し慣れてきたあたりのタイミングを狙っていたのです。「試験前に緊張したらこれを短い時間でいいからやってごらん、気持ちが落ち着いた状態で試験を受けるようにしないといけないよ」。そのように言い聞かせ、その後中3の卒業までずっと、ほぼ毎回授業の前に短い時間、一緒に瞑想をすることを続けました。
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さて、勉強の方ですが、お母様はMちゃんの先天的な学習能力不足を心配しておられましたが、家庭教師の私から見れば、それよりもまず日々の基本的な積み重ねが圧倒的に不足していることが問題でした。勉強が苦手な生徒は大抵そうですが、授業をきちんと聞き、その授業の中で理解できるところを理解するまではやるものの、日々の予習と復習をする習慣がないため、一度理解したはずのことが定着せず、だんだんと遅れて行ってしまうのです。そういう子は宿題のやり方もいい加減です。そこで、授業でやる内容も宿題も、基本の徹底を心がけました。教科書の音読、単語の練習、漢字の練習、計算練習などです。難しい問題は一緒に謎解きを楽しむくらいの感覚で取り組むか、もしくは思い切って飛ばしてしまいます。わからないこと、できないことは深追いしない。わかること、できることを確実にやる。それであっても、やれることはたくさんありました。
正直なところ、最初の半年くらいは大変でした。数学が中心でしたが、英語と国語も見ていたので、時間が足りないのです。また、Mちゃんの私への信頼もまだ十分ではありませんでした。テストのたびに、成績が上がらないとお母様相手に盛大に嘆くそうなのですが、私が訪問する頃にはもう忘れてケロっとしていました。教育相談員の先生は、そろそろ指導打ち切りになるのではないかと密かに心配されていたようです。
数学では一次関数でつまづいていました。説明しても説明しても、何か納得がいかない様子のMちゃん。しかし私はそれほど悲観していませんでした。他の科目もそうですが、数学は特にそれを理解するためのベースとなる生活経験なり何らかの実感というようなものが必要なのです。何かがどうしてもわからないとき、それをやみくもに追い求めても時間の無駄です。「今はまだ難しいのね、でももう少ししたらわかるようになるから大丈夫だよ」と言って一旦おさめ、わかるところをしっかりと固めていこうね、と話しました。
春休みに、これから受験生となるMちゃんの学習計画について、お母様と改めて相談しました。とにかく3科目見ていたのでやることが多すぎることと、宿題がきちんとこなせていないことが問題でした。宿題はどうしても後回しにしてしまい、授業の前日に慌ててやりはじめるものの、最後までいかずに終わってしまうということが多かったのです。そこで1日ごとの宿題を設定し、1日分が終わったら、その部分のノートや問題集のページをお母様に写メールで送ってもらうことにしました。これは、かつてはFAX指導という形で私も何人もの生徒に導入していた方法の、現代バージョンです。毎日、生徒の努力を確認し、褒めたり、わからないところを即座にアドバイスできるなどのメリットがある一方、生徒のモチベーションが低いままで安易に導入すると、生徒の心理的負担が大きくなり、やれなかった、できなかった、という実績が増幅してますます自信を失うことにつながるリスクもあるので、導入には慎重さが必要です。幸いMちゃんの場合はお母様の協力のおかげもあって、それなりに毎日課題をこなし、送信してくれるようになりました。私も毎回、採点と一緒に丁寧なアドバイスや励ましを添えるよう心がけました。
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春になり、Mちゃんは中3になりました。この頃Mちゃんに転機が訪れました。お母様が入院して手術を受けることになり、その間親戚の家に2週間ほどお世話になることになったのです。学校へはそこから通い、私もそのお宅にお邪魔して指導を続けることになりました。多分そんなに長い期間、お母様と離れて過ごすのは初めてのことだったと思います。緊張感がいい方向に作用したようで、責任感と自立心がこの頃から芽生え始めたように見えました。宿題の写メールも、それまではお母様任せだったのですが、これを機にMちゃんが自分で送るようになりました。お母様のほうでも、自分が過保護に過ぎたのではないかという反省もあったそうで、お互いに親離れ、子離れが進んだようでした。
夏休みになり、Mちゃんは部活がどんどん忙しくなりました。最後の大会は7月下旬で終わるはずだったのですが、思いがけず予選を突破し都大会へ進出することになったため、仮引退が8月中旬までずれ込むことになりました。お母様はいつになったら勉強に専念できるのかと気を揉んでおられましたが、Mちゃんは受験生である前に中学生です。3年間の集大成である大会を悔いのないようにやりきってほしいと思い、両立を応援することになりました。Mちゃん自身も、ここへきてようやく「部活をやるからにはその分勉強も頑張らねば」という気持ちが出てきたらしく、宿題の達成率がぐんとアップしました。頑張ってきた部活でよい結果を出せたことが励みになったことも大きかったのだと思います。
夏以降、国語は個別指導の塾に通い始めたため、私の授業では数学と英語に専念できるようになりました。高校受験に関しては私立の推薦狙いという方針が決まってきましたので、内申点を上げるために定期試験対策に全力を注ぎました。基本的事項の確認を繰り返し、問題集を解き、間違えた問題を解説し、自力で解けるようになるまで何度もやり直しました。この頃になると、Mちゃんの人間としての成長を実感できるようになりました。相変わらず大人しいのですが、以前のように首をかしげるだけでなく、わかる・わからないをはっきりと口にするようになり、こちらの問いかけにも言葉で答えるようになりました。また表情もずいぶんと豊かになり、コミュニケーションがとりやすくなりました。
秋になり、後期の中間試験が終了したら、すぐに推薦受験校決定のための面談です。Mちゃんはここで大いに迷うことになりました。カラーの違う二つの学校のどちらを選ぶか。単願推薦ですから、ここでほぼ決定してしまいます。お母様も私も、Mちゃん本人がよく考えて、自分で決めてほしいと思っていました。重大な決断を迫られる場面で二つの選択肢の間で迷うことは、これからの人生にも多く出てくるでしょう。しかし、それはまた自分の価値観や生き方を見直すいい機会でもあるのです。Mちゃんと話をしながら、自分の価値観をはっきりさせること、二つの選択肢のメリットとデメリットを紙に書きだして頭を整理すること、どちらを選んでも失敗ということはありえないことなどを伝えていきました。「この選択で失敗したらあとで後悔することになるかも」という恐れがあることを自覚し、それをなくすことが決断への勇気につながります。どんな道を選んだとしても得られるものは必ずあるはずと、自分で腹をくくっておくことが重要なのです。
Mちゃんは最終的に、自宅から通いやすく穏やかな校風と思われる女子高を選びました。受験は面接のみで、相当緊張したそうですが、見事に乗り切り合格。その後も極端にダレることもなく淡々と学習を続けられています。最近では、初期の頃の不安そうな警戒したような態度はすっかり見られなくなりました。勉強のやり方もだいぶわかってきたようで、相変わらず口数は少ないですが、リラックスした雰囲気の中、勉強を続けています。また、2年生のときはあれだけ理解が難しかった一次関数ですが、3年生で二次関数をやってみたら拍子抜けするほどよくわかってくれて、やはり人間の理解力というのは奥が深いものだなあと感心しています。
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私は家庭教師として生徒の勉強の面倒を見るのが仕事なのですが、相手が成長期の人間だということをとても大事に考えています。この子がこれから歩む長い人生を考えたとき、今生きている、この一日一日が幸せで充実していることが将来のこの子の幸せに直結していくはずですし、今ここで何を体験し何を学ぶかということが、この子の人生の土台になっていくのだと考えると、教科書の内容を教え込めばそれでよしという気にはなれないのです。本人が生きたいように生きられる、その土台を築いていく助けになりたいと思いますし、私がささやかな自分の人生の中で得ることのできたもののうち、何か良いもの、できれば最良のものを、勉強を教えるという手段を通して分かち合うことを願っています。