常に結果を出すことが求められ、実績主義で評価される厳しい世界にあって、それに生きがいと喜びを感ずる者。期待に応え得るだけの力量に加え、生徒を一から引っ張り上げるための、根気と情熱が不可欠。
日本家庭教師センター学院は、家庭教師センター・パイオニアとしての多年の伝統と実績から、「ふくろう博士の先生はいい、他とは違う」という信頼を前提に、入会されるご家庭が多い。 学院の特色は、第一に相談員が全面的にケアするので、家庭教師は安心して指導に専念できること。第二に研修会をはじめとする、自己研鑽の機会や横のつながりがあり、ベテランも若手も共に学び刺激しあいながら、経験や智慧を共有して、質の向上を図れるということ。こうした点は、同業他社でもやっていると謳(うた)ってはいても、内実はさほど機能していない場合が多い。
日本家庭教師センター学院のプロ家庭教師は、60年間培ってきた歴史の中で、一人一人が「ふくろう博士」の看板を背負ってやっているという、自覚をもったプロ集団である。
家庭教師は、人にものを教える仕事である。それには、自らも不断に学ぼうとする姿勢を持ち続けることを第一義としたい。専門の学業分野に限ったことではなく、世の中の様々なことや文化・芸術に興味を持ち、感動を伝え、物事に惚れ込んで没頭できる人間であれるかどうか ということ。
一つのことに秀でた人というのは、若者にとって「神」に近い指針となり、夢を与える。
教育に携わる者は総(な)ベて、そういった天才肌の芸術家や大実業家とは違い、器用貧乏で取柄はただ教え好き、人間が好きという一点に尽きよう。
自分を生かすのでなく、100%相手を生かす。
人のために、身を粉にして時間と愛情を捧げ、彼等が立派になった暁 (あかつき) には(まあ、それ程立派でなくともよいが) たまに飲んだりすることに、この上ない喜びを感ずるような生活。それこそがプロ家庭教師の特権であり、性(さが)とする処なのである。
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指導した生徒全員を志望校に合格させ、不敗記録を更新中!
幼児から小・中・高の補習および受験指導から、大学生・院生・社会人まで、幅広い要望に対処可能。公務員試験・法科大学院etc.も合格実績あり。
オールマイティに請け負うが、特にスペシャリティの高い技能を要する専門教科は、
「国語・小論」伸びたのを実感!塾や予備校の10倍以上の密度!との生徒の言である。
基礎のできていない生徒には、わからない気持ちに添って、相手の目線に立った導きかけを心がけている。優しく、時に厳しくヤル気を喚起させ、ここぞという段階まで来たら「教え込む」という気概が必要と考えている。
受験は、生徒本人には「人生を賭けた」大一番であり、親御様にとってはどんな子もかけがえのない大切な宝である。お預かりした原石を愛情かけて磨きぬき、「自己変革」の劇的瞬間に立ち会えるところに、この仕事の何よりの喜びと醍醐味がある。
まず、物語にすっと入りこめ、感情移入できる感受性。次に、高度な評論の理解にあたり、語彙力や読解などの基本的リテラシー能力(いわゆる国語力)を伸ばすこと。
国語の苦手な子供は、本や活字に抵抗があり、情動や表現力に乏しい傾向がある。
中学受験の国語が扱うテーマは、道徳的配慮からなるものや、「成長」を意図したものが主流なので、用語も思考過程も、「大人」に近い観点を突いてくるということが言えるからである。兄弟・子供同士の相克や、貧困・死など、普遍的ではあっても、今の子供の経験世界からは疎いと思われる主題も頻出する。それを埋めるのは小手先のテクニックではなく、物語や評論の世界にいかにがっぷり取り組めるかという、「想像力」「思索力」いかんによるのである。
中学受験より一段発展的な、難度の高い文章が出題される。対抗策は、「抽象性」をもった言葉の選択に慣れることである。
(ex観念的・具体的・理論的・宗教的)etc.の選択肢から、適合するものを選ばせる。また、そうした語の理解が浅いと、そもそも本文を読み取るのに困難が生じかねないというのが、高校受験の要求レベルであるからして、言語に厳密に、デリケートになれる素養と、古今の詩歌などによって、美しい言葉や音の響きにうっとりと酔えるような時間を、常に心がけてもつようにしたい。中学時代は柔軟で、記憶力も吸収力も最も優れた時期。教科書の
「徒然草」や「枕草子」「平家物語」の冒頭部分や百人一首などの暗唱は古典のリズムと雰囲気を身に沁み込ませるのに、最も効果的な学習法と言えるだろう。
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国語の読解•表現・語彙力などの基本的リテラシーの必要性は、中・高受験と変わらない。大学で専門知識を学び、論文を書く下地としても、社会人となる上での最低限の常識としても、漢字や敬語などの素養は、必要不可欠なものである。
さらに大学受験では、より高度で難解な現代思想や文明批評はじめ、実に多彩で多岐にわたる分野からの出題がなされる。そこで10倍の難関を突破するには、オーソドックスな解法センスに加え、「複眼」を養い、10枚の中で眼を惹く1枚になるくらいの、「心眼=論理性に裏打ちされた直観力」を磨きあげること。えっ、そんなことどうやって?と思うかもしれないが、プロの手にかかると意外に造作なく、誰でも、2〜3ヶ月でセンター3、40点の飛躍は到達可能なのである。
大学受験は、親主導のそれまでの受験と違い、本人の主体的な意思決定に何よりも重みがおかれる。したがって、ヤル気次第でいくらでも伸ばせられ、課題達成への働きかけこそが鍵となる。
英数のような長期におよぶ蓄積がなくとも、普段日本語の世界に身をおいて本や情報に触れたり、何がしかものを考えたりといった経験が、勉強を始めたら即刻生きて自分にはね返ってくるのが、深い「人生観・人間観」を問うところの、国語入試問題なのである。
国語を苦手とする生徒は、本を読まない・語彙や語感に乏しい・コミュニケーション力の訓練不足・元々「言語・論理」を司る左脳系ではないetc.様々な特徴が挙げられよう。
背景には、核家族による母子の接触度、子ども世界や地域のつながりの希薄化、書物以外のバーチャルな情報ツールの侵犯など、現代の抱える問題がそのまま若者の精神構造に影響を及ぼしているであろうことは、想像に難くない。
「孤独」に自分と向き合い思索するより、すぐに手っ取り早く他者からの「返答」に解決策を委ねる。自己表現への怖れ・はにかみは、曖昧な「若者言葉」にみられる自信のなさと表裏一体であろう。
また、学校や集団の中では特に先生からほめてもらったり認められたりということが少ないため、積極的に発言したり、国語が好きだという気持ちを持つことも、育ちにくいと思われる。
頭の素地はかなりいい生徒でも、国語に自信がなく、自分にはセンスがないと思い込んでしまっている場合も多い。
数学のような絶対的「解」など存在しない、ア・プリオリ(=先験的)な難問を考えていこうとする文章で、無理やり出題者の意図に沿った「一つの答え=鋳型」にはめ込まれるから、本来思索的な資質をもった感受性豊かな生徒ほど、「納得」がいかずますますジレンマに陥るのだろう。
国語の苦手な生徒ほど、やってもやらなくても同じと刷り込まれているか、勉強のしようのない教科という、諦めや嘗めてかかった先入観で、余計進展が阻まれている場合が多い。しかし、国語の解法は緻密な裏付けに則ったものであり、プロセスを踏まえたテクニックをマスターすることにより、誰でも短期間で、確実な解答力をつけることが可能である。
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国語は全科目の基盤であり、本物の読解・記述力を磨くことは、他教科にも波及的な効力を及ぼす。語彙・語感を豊かにすることは、他人との会話も楽しく弾ませ、人間関係に潤いをもたらすばかりか、社会に出てからも、「文は人なり」との評価によるメリットは計り知れない。
私のような「仕事人」の役割は、彼らの感じ方・考え方は全面的に聞き入れつつも、国語入試問題が求める、直感や感性でない「論理性」に適った正答を選び出す筋道を、根拠を明確にして一つ一つ、納得づけていくことにあると思っている。その過程で必要な「知識」をすべて仕込み、「思考」の核となるバックグラウンドを植え込み、対象となる教材や作品世界に情熱をもってあたること。
最終的に結果を出し、目標の大学へ入ってもらうことが一番の前提だが、受験のための知識やノウハウを皆忘れた歳になっても、授業の時の興奮や感動を思い出して本を求めたり、登場人物に感情移入できる感性を持ち続けたりして、人生を豊かに渡っていってほしい・・・そんな願いが、私の教師を続ける原動力ともなっているのである。
後編は、次回6月15日(水)にアップする予定です。