「節目とは何か?」
平成から令和への代替わりによる新時代の幕開け、現在学院創立60周年、私自身、学院長就任して20年目で、年齢が丁度50歳と、4つの節目が重なっている中で、
<節目を実感し「気持ちに変化」が起きた出来事が2つ>
まず、2013年に決定した東京五輪・パラの開催。その時イスタンブールとマドリードも候補都市に手を挙げた中で東京に決定。その4年後の2017年に、東京の次はパリ、パリの次はロサンゼルス開催とIOC総会で承認。かつては開催したい都市が沢山手を名乗り出ていたのに、「どうぞどうぞ」と譲り合う…まるで芸人のギャクそのものになってしまった。また東京五輪で、閉会式当日に開催される大トリのマラソンコースまでも、急遽札幌に変更されたこと。
次に、センター試験から大学入試共通テストへの変更。
英語の民間試験活用と、国語・数学での記述問題の導入に対し、昨年末、延期が発表された。時の大臣による身の丈発言が問題化。言葉の問題として、自己評価的に「身の丈で頑張る」と遣うなら謙遜の意味にも取れ問題ないが、他者に向けて言うべき言葉ではないと思う。他にも、前五輪・パラ担当大臣が、競泳の池江璃花子選手が白血病を公表した時に発した『残念』の一語。当事者の想いを全く無視した発言で、まだ『大変ショックを受けた』なら、ニュアンス的に問題にならなかったと思う。改めて想像力とともに、相手に伝える言葉のチョイス、語彙力が重要。これは日頃マイナス思考の言葉を遣っていると、ついつい相手を傷つける発言が出てしまいがちなので、常に相手のことを考え、ポジティブ思考でありたいものだ。
以前研修会の席で、ある先生が「プラスとマイナスの人生」の話をされた。
概要は、自分が望むプラスの人生にするためには、その分同様のマイナスの人生も背負う必要があるということ。宝くじで高額当選した人が、突然手にした大金で人生を失敗することがあるかと思えば、どん底まで落ちたプロゴルファーのタイガー・ウッズが奇跡的に復活したケースもあり……プラス思考で考えるなら、今がマイナスでもこの試練を越えれば転機が訪れることがよくある。50歳になった今、人生最後の針が、ちょっとでもプラスに傾いていたらよいのかなと思っている。
五輪に関しては、数十年前の右肩上がりの時代のようには発展が望めない厳しい経済状況と、北半球で開催する時期的な限界、つまり異常気象による地球温暖化の問題。
共通テストに関しても、企業癒着や採点方法の不平等性など問題は山積だが、具体的内容はここでは割愛する。
札幌に変更された選手と、試験項目が延期された受験生の共通点は、〇〇ファースト。果たして、選手ファースト、受験生ファーストであったのか。
これらのことから「誰に、いつ、どこで何を優先的に考えられるか?そしてどのように行動・対応するか?」が重要となる時代だと考える。
では「その時代にどう生きるのか?」
国内に褒めちぎる教習所があるという。S字カーブで生徒が脱輪してブレーキを踏んだ時でも、脱輪したことを注意するよりも、ブレーキを踏んで大事にならなかったことを褒める。
怒られることに慣れていない若者がターゲットである以上、車離れの時代に生き残る戦略とも言えよう。自分のスキルアップのためにお金を払って教わる側と、お金を貰って教える企業側のバランスが、より顧客優先で考えねばならなくなった時代だと感じる。
我々の時代、教官=怖いのは当たり前であった。わざと怒らせるような態度をとって、いかなる場合も冷静であるよう審査しているのでは、といううがった見方さえ囁かれた程だ。褒める優しさよりも、車は凶器であることを踏まえ、命に係わる危険性をしっかり伝えることが大事だと思う。
この生徒と教官の構造は、我々家庭教師にも相通ずるところがあると思う。
問題の答えがわからない生徒に対して、「前回教えたばかりなのに」と言いたい気持ちを抑えて、「今、弱点が発見できてよかった。次は大丈夫だよ」と励ますのがプロ。
ヤル気を出して成績が上がるよう、生徒を一生懸命に褒める一方で、合格という結果を出すためには、時に諫め、現実の厳しさを伝えなければならない。さらに、スポンサーである保護者への対応も求められる。人間力がものを言う所以だ。
先述の大臣発言でも波紋を呼んだ問題が「教育の平等」である。
頑張った者だけが結果を出す合否判定だが、キリギリで受かる生徒もいればギリギリで落ちる生徒もいる。余裕で受かって入学しない生徒と、どうしても入学したいのにギリギリで落ちて、悔し涙を流す生徒の差とは?と考えると、何が平等なのか考えさせられる。
離島に暮らす生徒や、大震災後に仮設住宅で勉強する条件など、格差社会を考えれば完全な平等は不可能であり、それが資本主義と誰もが納得している。
「結果の平等」のみならず、「機会の平等」さえも、親が子供に何を願いどう与えるかによって、左右される世の中だからだ。
我々家庭教師派遣は、富裕層をターゲットに成り立っているビジネスだ。
そんな中で、学院長である私自身、「教育の平等」が頭から離れず、ストレートに教育=ビジネスと割りきってしまえない部分が正直ある。
どんな仕事でも何かしらの矛盾はつきものだ。医者でも救える命と救えない命がある。
獣医の場合を考えてみよう。犬・猫などの小動物と、産業動物では、扱われる命の軽重は極端である。
ペットは、飼い主が人間同様に保険のきかない高度な医療を望み、手厚い看護やホスピスで寿命を全うする。
対し、約3年で屠殺する肉牛、養豚はたった半年で100kgまで成長させるように品種改良され、半年を超えると、その重さで起立不能に。鶏は成鶏に達するのに通常4~5か月かかるのに、品種改良されたブロイラーは、生後わずか50日で食肉となる。雌は毎日産卵し、乳牛も毎日搾乳される。自然界では考えられないスタイルが日常。
犬も鶏も同じ一つの命なのに、人間の都合によって命に差が生まれ、運命が正反対となる。
節目の時代では、一度決まった事でも、後で周りの雰囲気で変更される。〇〇ファーストという後付けみたいな変更理由で、みんな何となく納得する流れに感じる。だったら、初めから〇〇ファーストという姿勢で物事を考える必要があると思う。学院も、ご家庭と家庭教師のことを優先的に考える姿勢でいたい。ここで言うご家庭ファーストとは、「子どもの夢の手助け」であり、家庭教師ファーストとは、「納得した報酬」のことである。
今低学年の生徒が、老後は普通に宇宙旅行する時代になる。生徒を宇宙船にたとえると、燃料を供給する役目が家庭教師だと思う。満タンでないと目的地まで到着できないし、常に新鮮な燃料でないと意味がない。
2023年以降に民間で月旅行が計画されているが、現在のところハードな訓練が必要で、気楽な旅行というより、夢だった未来に近づく〈ミッション〉の感がある。
この先、どんな遠大な夢も夢ではない時代が到来する。だからこそ、生徒の望む人生を叶えようという強い〈ミッション(=使命)感〉をもって、指導を願う。
最後に、初代ふくろう博士の「教育とは投資、元本割れのない知的財産」という言葉を継いで、私は教育とは、「プロ家庭教師とともに導く、究極の将来投資」であると考える。
AIによる予測不能な未来が待ち受ける令和の時代も、変わることなく信頼と実績を築いていきたい。
21世紀の子ども達へ“夢”と“希望”を与える創作絵本
「ふくろう文庫(1990年5月16日発行)」コンテスト受賞作
絵:加藤秀雄氏
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