●予測不能な時代における教育の意味
世界は今すごいスピードで変化しつつある。日本では天皇が代替わりして元号が変わるということがあったが、国際情勢、環境問題、情報技術の進歩、等々、あらゆる分野で既存の社会秩序はことごとく崩壊し、それに代わる新しい秩序がまだ確立せず、大変不安定な状態になっている。
このように大きなパラダイムシフトが起こっている時代において、教育とはどうあるべきなのか。現在教育と言われているのは、自分が親や先生や周りの社会から学んできたことを次世代に伝えていく営みである。教育の方法論については、心理学的な実験に基づく理論など科学的根拠がありそうなものも様々あるが、教育において何をゴールとするか、という価値論になると、それぞれが「これが価値あることだ」というそれぞれの考えをもとに行っているというのが、実際のところであろう。その個々人の考えの土台にあるのは、自分が学んできた、人間や社会のあるべき姿のイメージである。ということは、根本の土台から価値観が変わっていく、これからの時代を生きていく子供たちにとって、我々が行っている教育はほとんど有効ではないのではないかというような気持ちが、最近ますます強くなってきている。
しかし、ではどうすればいいかはわからない。これは生徒の未来にとって有効ではないかもしれないなどということに気づいてしまうと、我々の仕事はお手上げなので、それはそうだけれどもとりあえず受験があるから勉強しよう、というようなことでやっているのが本音ではないだろうか。
こういう根本的な部分を取り上げて問題提起し、その解決法として従来の科学では認められていない方向での解決策を展開するのは、いろいろな意味でかなりリスクの高いことではある。しかし、「ゆでがえるの寓話」のように、現状に違和感をもちながら放置しつづけて自滅の道をたどるよりは、危険を冒してでも新しいことにチャレンジすることも必要ではないかと思い、今回は敢えて既存の常識を超える話をしてみることにした。
●新しい知性=古い智慧
私は大学卒業以来、一貫して心について勉強してきたが、大学で教えているような心理学ではなく、NLPやトランスパーソナル心理学といった、深層心理よりさらに深い部分を探っていくタイプの新しい心理学や、禅や瞑想、悟りといった世界に代表される、個我を超えた意識そのものについて探求してきた。いわゆるスピリチュアルな分野も含め、昨今、新しい知性として注目されている様々な考え方が、実は古代から伝わる深い智慧と一致している。そこで新しい知性と古い智慧ということをいくつかの例をもとに考えてみよう。
新しい知性の例としては、AI(人工知能)の著しい発達ということがある。2045年にはAIが人類の知能を超えるシンギュラリティ(技術的特異点)に到達するという予測もある。
AIについて考えていると、そもそも人間の知能とは何か、ひいては人間とは何かという疑問に向き合うことになっていく。知性を、そのままロボットに置き換えることができるならば、肉体の中にある脳はどういう働きをしているのか。意識は脳に存在しているのか、それとも別のところにあるのか。私達はこの肉体をもって「私」という境界線を引き、それ以外のものを「他者」「外界」と認識するが、その認識は妥当なものなのだろうか。
それから、1999年に第一部が発表され、その後三部作として完結した『マトリックス』という映画がある。ざっと説明すると、今私たちが生きて活動している世界は、全部プログラム通りに動いている夢の中のような世界であり、本体の自分は眠らされて全てが管理されている。そこに気づき、自ら目覚めた少数の人達が、人類を救済するべく支配者側と壮絶な戦いを繰り広げていくという物語である。あくまでもフィクションであり、SF娯楽超大作として興行的に成功するように様々な仕掛けがされているのだが、この映画の中で展開される「この私たちが見ている現実だと思っている時空間というのは、全部幻想で実在していない」という世界観は、禅などで言われている世界観とほぼ変わらない。スピリチュアル分野に関心のある人たちの間では大変有名な映画である。
また、アインシュタインの相対性理論から始まって、量子物理学の研究が進むとともに、従来の科学で想定されている“客観的視点”というものの存在が揺らいできている。すべて認識されたものは、“観察者の視点”という主観から認識したのであり、観察者が存在することによって、認識される現象の見え方は変わると説明されている。波と物質は全く同じもので、観察者がそれを見た瞬間に物質になるけれども、見ていない時はただの波に過ぎないというのである。
心理学分野でも新しい知見が得られている。私は一時期NLPという心理学を熱心に勉強した。NLPでは潜在意識について研究し、そこで得られた知見をもとにカウンセリングやセラピーや教育に応用していく。潜在意識がどのようになっているかは、まだまだ解明されていない部分のほうが多いのだが、深く見ていけば見ていくほど、自己と他者、あるいは自分以外の外界という区別が曖昧になっていく。潜在意識は、自分と他人というものを区別できないのである。そうなると、私達が普通に教えられてきた「自分に厳しく他人にやさしく」という道徳的お題目は全く意味をなさないということになる。
こういったことは、古くから伝わっている智慧、あるいは聖者と言われる人たちによって繰り返し語られてきた世界観と酷似している。インドに伝わるヴェーダ哲学では、宇宙創成とは根本原理である意識が、認識するもの(主体)、認識されるもの(客体)、認識する行為(過程)に分かれたことによって成されるが、実は本当は分かれていなくて、全てが一体となっているのが意識の実相だという。「私はいない」とは非二元論で常に語られる言葉で、あちこちで誤解を生んでいるようだが、非常に深遠な真理を言い表しているのであろう。
これらの古くて新しい知見から、私と私の見ている世界というものを簡単に説明すると、まず「意識」がある。意識は無限であり、私たちが見ているこの世界を生み出している。意識だけが実相なのだが、この肉体に意識が入り、同化することによって、これが「私」だと思い込む。そしてこの肉体以外のものは、この個我から見て他者、外界と思い込む。外があるから、「私」がいる。そのようにして幻想世界を作り上げていくのである。
●三次元空間システムの理解
ではこの世界はどのようにできているかというと、全てのものは表裏一体しており、それが同時に存在している。これは次世代の新しい知性としてこれから広まっていくであろうと私が考えている「ミロスシステム」という世界観である。
ミロスの三次元システム論によると、この世界ではすべてを相対として認識する。自分と他人、内と外、上と下、善と悪、男と女、始まりと終わり、などなど、全てが対になっている。何かを認識したら必ずその対になるものがあるのだが、問題は、それらはもともと一枚の紙の表と裏のように一体で決して分離できないものであるにもかかわらず、意識が一方に同化することによってもう一方は別のものと思い込み、1つのものであるという根源的な理解から離れてしまうことである。それによってそこに葛藤が生まれるのである。
私達は生まれてからこれまで、この「表裏一体・同時存在」という時空間の本当の在り方を知らなかったので、親や周囲の大人たちから、これはいいことだ、これは悪いことだ、というふうに、一方を善、他方を悪とする考え方によって教育されてきた通りに世界を認識し、悪を遠ざけ、善を成そうとする。あるいは長所を伸ばし、短所を減らそうとする。しかし、プラスとマイナスは表裏一体しているということは、プラスにもマイナスの部分があり、マイナスにもプラスの部分があるということでもあるし、プラスを伸ばせば漏れなくマイナスも同じだけ伸ばすことになるのである。
例えば「戦争と平和」というのは対になる概念として考えられており、戦いはやめて平和になろう、平和のために戦おう、などと普通にいう。しかし、よく考えてみればこれほど明確な自己矛盾もない。にもかかわらず、そこに気づく人はほとんどいない。ある戦闘的な環境保護団体が捕鯨船に向かって火炎瓶を投げるような行為をすることがある。そこまで極端なものを見ればさすがに疑問が生じるが、相反するように見える「守る」と「攻める」が実は表裏一体した同じものだとは理解できないのだ。
そして、この表裏一体しているものが、この三次元空間では離れて見えるのだが、それは一方に同化するともう一方は外界に現象として映して見える。これが、この時空間システムにおけるもう一つの、「反転のトリック」と呼ばれるものである。
例えばいじめという問題があるが、「いじめる」と「いじめられる」は同じエネルギーの表と裏である。いじめられる人というのは何かの拍子に間違って(主に幼少期の親との関係の中で)、自分が無価値だと思い込んでしまった人である。無意識の中で無価値な自分を嫌い、自分を攻撃しているのが、三次元空間では外から攻撃を受けるという現象として映し出されるのである。いじめる人のほうはどうかといえば、いじめられる人と内面的には全く同じものを抱えている。自分が無価値であると無意識の中で思い込んでおり、そんな自分を嫌っているので、同じように無価値感を漂わせている人と共鳴しあい、自分の無価値感が刺激されるのである。そして、思い出したくないその感覚を思い出させてくれる相手を疎ましく思い、攻撃してしまうのだ。つまり、外側に見えているものはすべて反転した自分の内側だということである。
これは、今までの人類が知らなかった知恵であり、にわかには信じがたいかもしれないが、現象に当てはめながら注意深く観察していると、実際にその通りで、自分の中で苦しみを作り出し、幸せになるのを阻んでいるのは、そのシステムの無理解からくる心の中の葛藤だということがわかってくる。すべてがそうなっているのが、この三次元空間のトリックなのである。そして、なんだ、そうなっていたんだ、と理解するだけで、自分の内面のバランスの崩れが整い葛藤が終わり、自分の内面が整うと、それがそのまま外側の現象として映し出され、現象が変わっていくのである。
●教育におけるシステムの実践
私がミロスを勉強し始めてから2年ほど経つが、それを踏まえつつ、改めて教育ということを考えると、生徒を他者としてとらえ、そこに対して何か働きかけをするという考え方自体がそもそも間違っているということになる。
生徒を見て、どうしたらいいのだろう、この子にどう接していけばいいのだろうと思うときがある。例えば勉強ができない生徒、勉強へのモチベーションがどうしても上がらない生徒、うまくコミュニケーションが取れない生徒。それらはすべて自分の内面が反転して生徒に現れていると考えざるをえない。自分が目の前に作り出したその現象は、全部自分が見ることのできない無意識の「私」を知るために、自分の自我を超えた意識が作り出しているととらえると、その生徒を通して私は何に気づけばいいんだろうという発想になる。
ミロスを実践している人の体験談で、とても興味深い話を聞いたことがあった。その人は学校で放課後に軽い知的障害のある子どもの補習を担当する個別指導の先生なのだが、ある生徒が全く机に座らないで教室中をバタバタ歩いたり、ペンケースを出したりしまったり、壁の電気のスイッチをつけたり消したりといったことをずっと繰り返していたそうだ。どうしたらいいのだろうと途方にくれていたのだが、ミロスのシステムに当てはめて、あの子が私なんだ、自分の内面がそこに映っているんだと思い出し、その子の顔に自分の顔を貼り付けてイメージしながら、どういう感じなんだろうとずっと観察していたという。そうしたら自分が幼い頃に、親が共働きで忙しく、なかなか面倒を見てもらえなかったのだが、寂しさを我慢して、私のことを見て見てという思いをずっと心の中に抑圧していた小さい頃の自分の感覚というのがよみがえってきた。「あ、あの子は私だ!見てほしいという私の思いを映している!」と気がついたその瞬間に、その子が歩き回るのをパッとやめて机に戻ってきて、「はい、勉強します」と言って勉強を始めたという。
これは数限りなくあるミロスの実践例の一つなのだが、そのように目の前の現象が反転した自分だと分かった瞬間に、現象自体が変わるのである。認識者と認識対象は同じものであり、表裏一体であり、同時存在だから、認識する側の認識が変わった瞬間に、認識される現象も変わるのである。
その話を聞いて、私もやってみることにした。私の生徒で、受験生なのにまったくその自覚がなく、勉強自体を激しく拒否する子がいた。それで、本人の意思を確かめようと、実際受験したいのかどうかと聞いてもわからないと答える。その子が私なのだ、と思って感じてみても、自分の何が映っているのかよくわからなくて、仲間に聞いてみたところ、「あなた自身がこの勉強をしたいかしたくないのかわからないところがまだあるんじゃないの」と言われて、「えーっ!?」と驚いたのである。自分が絶対これは自分じゃない、これだけは絶対に違うと思っている部分こそが盲点であり、そこが無意識の反転として生徒に映っていたというわけである。「なるほど、あれは私か」と受け入れたその翌週、生徒が突然豹変していた。「僕、受験しますので、よろしくお願いします」ときちんと頭を下げて挨拶をしてくれて、私は目が点になったのだが、その日を境に授業中の態度も一変してまじめに取り組みはじめたのである。
また、私はいつも生徒とうまくコミュニケーションが取れなくなると、相手の話を聞こう、ちゃんと聞いてあげなきゃというふうに傾いていくのだが、それもやはり自分の幼少体験から作った思い込みが関係していた。私は年の近い3人兄弟の真ん中っ子として育ったため、十分にかまってもらえなかった、自分の気持ちを親にちゃんと聞いてもらってない、私は何か言いたいことがあっても聞いてもらうことができない、という無意識の思い込み、いわば思考の傷があった。その傷をバネにして、人の話は聞いてあげようというプラス思考に傾くことで、聞いてもらえないというマイナスを隠そうとするのだが、聞いてあげようとすればするほどこのマイナスは大きくなり、反転して生徒に映る。
するとどうなるかというと、生徒は自分のことが言えない、自分の気持ちがわからないという生徒が目の前に現れるというわけだ。それに気づかないと、自分のことをきちんと話せない相手に内心イライラしてコミュニケーションがどんどん悪化することになるのだが、「ああ、思いを言えないのは私なんだ」と認識したら、最近はその生徒はもちろんのこと、それ以外の人ともコミュニケーションが取りやすくなってきた実感がある。
このように劇的に変わる部分もあるし、ああ、変わったなぁと思って安心していると、次に行ったらまた元に戻っていたり、あるいはもっと別のものを見せてくれたり。いろいろあるが、そのような実践を今やっているところである。
●「わからない」と認めること
最後に人生のゴールについて考えてみたいのだが、結局人はみな幸せになりたくて生きているはずである。しかし、そもそも自分にとって何が幸せか、幸せって何だろう、何があれば幸せなのかという根本的なことは、意外と考えないのではないだろうか。また「あなたにとって幸せとは何ですか」と人から聞かれることもない。人の最もデリケートな部分に触れることだからで、普通はマナーとしてそのような話題は避けるのである。しかし実は最も根源的なことがわからないのだ、わからないままとりあえず過ごしているのだ、ということをまず認識するのが大事なのかなとも思う。
よく言われることだが、例えばお金があれば幸せかといえば必ずしもそうではないというのは、誰でも知っている。知っているにもかかわらず、親は必ず子供に、将来経済的に安定した生活を送れるよう準備することを期待する。結婚すれば幸せ、子供が生まれれば幸せ、そんなことはないと知っているのに、それを子供に期待し、子供自身も意識上でそれを受け入れたり反発したりしながら、無意識レベルではその価値観に沿って生きていくようになる。自分でさえそれなので、他人である生徒、しかもこの変化の激しい中で次の時代を生きていく生徒が、どんな隠れた才能があり、一体何があれば幸せになれるのかというのは私達には決してわからない。その答えはその子自身が持っていると思うのが正解であり、本当にそれしかないのである。
であるから、生徒の勉強の面倒を見つつも、根本のところでは生徒のことは生徒自身にまかせ、私はまだ見ぬ私の真の姿を、生徒を通して見出だしていくということを、腹を据えてやっていこうとしている。それが、最近の私が考える「生徒に学ぶ」ということである。
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