◆歴史の授業は楽しいか
自分の経験から言っても決して楽しいものではなかったし、苦痛でさえあった。
歴史を学ぶ意義が「故きを温ね新しきを知る」ことにあるのだから、あまりに枝葉末節にこだわりすぎ、入試などで「難問」を出すのはいかがなものであろうか。
つまり、日本の歴史教育が本来の学ぶ意義から大きく逸脱し、学生不在の不毛な学科になってしまっているのではないか。歴史の授業が先生の教科書棒読み授業では、だれでも眠くなり飽きてしまう。
ではいかにしたら「楽しい」授業になるのか。簡単にいえば生徒の歴史に対する興味を引き出すこと、授業に工夫をすることである。
◆興味を持たせる3つのポイント
1 歴史の転換点を語る
特に一個人による「あのときあの人がそれをしていなかったら」という設定で、その後の歴史の展開を想像してみるのである。この想像が興味を引き出し、深い理解へとつながる。
日本史では、1582年の本能寺の変を例にとると、明智光秀が織田信長を殺すことなく備中にいる羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に支援に向かっていたなら、織田幕府が誕生し、鎖国もなく貿易も活発化して、西洋文明に後れを取ることなく、近代を迎えた可能性もあったかもしれない・・・
また現代史では、昭和十年(1935年)永田鉄山陸軍軍務局長が相沢三郎中佐によって、こともあろうに陸軍軍務局長室において斬殺された。永田の対中国構想、世界観、外交・軍事感覚からすれば、到底英米を相手に戦争をするとは思われない。中国侵攻を主張する皇道派と対立し、合理的な戦略を持った人物だったからである。少なくとも後の首相になる東条英機より、はるかにまともな「戦争観」は持っていた。
世界史ではどうか。第1次大戦の引き金となったサラエボ事件を挙げてみよう。
1914年、一セルビア青年がオーストリア皇太子夫妻を暗殺しなければ、第1次大戦、延いては第2次大戦までも起こらなかっただろうし、ハプスブルク朝など4王朝も滅ぶことはなかったであろう。たった1発の銃弾が、世界史を根底から変えてしまったのである。
もう一つは1936年の西安事件である。
当時中国は、日本軍の侵略にも拘らず、蒋介石率いる国民党と、毛沢東率いる共産党が対立しており、これを憂えた蒋介石の部下で、東北軍の総帥であった張学良が蒋介石を監禁し、国共合作(=国民党と共産党の協力)するよう諫言(かんげん)を諮(はか)ったのである。共産党は苦難の長征後疲弊しており、そこに蒋介石が最後のとどめを刺すべく、西安に来たのである。その時事件は起こった。
結局監禁された蒋介石は、張学良の諫言を受け入れ、翌年第2次国共合作に至るのである。あの時張学良が西安事件を起こさなかったら・・・・おそらく共産党は滅亡し、朝鮮戦争も文化大革命もなく、西側諸国の一員として民主国家になっていたであろう・・
かように、歴史はIF(仮定)をして、その後の成り行きを想像してみるのが実に楽しいことだ。この楽しさ、面白さが、歴史への興味につながる一つのきっかけになることは確かだろう。
2 文化史を語る
歴史を教えるにあたり、楽しくもあり難しくもあるのが文化史である。およそ名も知らぬ人名と作品名を無理やり覚えさせられて、辟易した記憶は誰にもあろう。
しかし、文化史はある意味で、歴史に興味を持ってもらうチャンスでもある。無理に暗記させるのではなく、教える側が絵画や建築、仏像や彫刻、文学や詩などを楽しんでいる姿勢を示すことが肝要である。できる限り資料を見せ、それに自分の思いを語って聞かせるのである。そのためには、できる限り「現場」に赴いて、そこでの体験や実感を語れば、一層効果的だ(歴史自体が、常に現場に赴くことが求められている学問である所以だ)。
私は、日本の史跡では、京都や奈良、および鎌倉に十数回は行って、主だった寺社仏閣、絵画・彫刻など見て周った。また世界史関連でも、著名な美術館や建築物などを見て歩き、東京にいながらにしても、美術館を巡り、世界の著名な作品を鑑賞するよう努めている。さらに、古典から近現代の文学作品なども、できるだけ買い集めて手元に置き、随時読むよう心掛けている。つまり自らが文化史に魅せられ、堪能している姿を生徒に見せることが、生きた歴史教育につながると考えている。
3 生きた授業を
先の文化史で触れたことと重複するが、歴史はやはり現場を見ることが一番である。実際に足でその場所を探し、目で見てみると、改めて歴史がわかってくるのである。
またそうすることで、臨場感をもって史実を語ることができ、聴く側を魅了することになる。イタリアのフィレンツェやセルビアの街の石畳を歩いていると、中世の時代にタイムスリップしたかのような感覚に襲われる。イスタンブールのボスポラス海峡を見ていると、アレクサンダー大王の東征理由がわかるような気がする。サラミスの海戦もしかり、である。これらを自分の目で見た感動とともに語ることこそが、「生きた授業」であろう。
またもう一つ歴史の授業で大事なことは、登場人物に魂を吹き込むことである。歴史小説家の作品を読むと、あたかも登場人物が本当に悩み、考え、行動しているかのように描かれている。それで読み手はそれらの人物に共感し、物語に引き込まれていく。
一つの史実を説明するにあたり、例えば蘇我入鹿はなにゆえ皇位簒奪(さんだつ)を狙ったのか。ピカソはなにゆえにゲルニカを描いたのか、など歴史には、教科書には出ていない多くの「なぜ」が犇(ひしめ)いている。それらを繙(ひもと)き、自分なりの史観でその「なぜ」に答えていくことは、歴史の深みと醍醐味を伝えることになる。
以上の3点を語ることで、まずは生徒の関心を惹き込むことが、歴史へと誘(いざな)う第一歩であろう。
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