文部科学省の方針
文部科学省は平成14年に、「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」を策定した。このなかで、英語教育の中心は、「コミュニケーション能力」を身に付けることであるという方針が明確にされた。
さらに、平成25年に、「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」が同省により発表された。同計画では、小学校から高等学校まで、一貫して英語によるコミュニケーション能力を養うことが、英語教育の目的として掲げられている。
その結果、英語を学ぶとは、コミュニケーション能力を養うことであると考え、文法知識や英文読解能力のない多数の高校生が大学に入学しているのが現状である。
大学の一般教育の英語教材
上記の文部科学省の方針は、小学校から高等学校までの英語教育についてのものであるが、このような英語教育を受けてきた大学生に対して、文学作品を利用した講義をすることは大変困難なのは当然のことである。
また、大学側も、「コミュニケーション能力の向上」を一般教育の英語の目標として掲げる風潮が強くなっていった。その結果、大学の一般教育の英語授業においては、平成15年以降、教材として文学作品を利用することを認めない動きが顕著になった。多くの大学が、各英語教員に、「文学作品を教材として使用しないでください」と明文化して通達し出したのもこのころである。
平成30年の現在では、あえて大学側から指定されなくても、教員が当然のこととして文学作品は使用しないということになっている。
教職課程の英語
大学の英語教育における文学離れは、一般教育にとどまらない。英文科の授業においても、教職課程のように、文部科学省が教育内容を指定できる科目においては、単なる文学作品の読解による授業は認めない方向に進んでいる。「コミュニケーション能力」を高める英語授業を行う教員を養成するのに、文学作品に対する知識や読解能力は不要不急のものとみなされているようである。
そのため、教職課程の文学読解の授業のシラバスについては、「異文化コミュニケーション」、「ディスカッション」、「グローバル化」などのキーワードを含めるように、という通達が、同省より各大学に出されている。
最後に
かつての教養主義、シェークスピアを読んでおけば有り難い、せめてヘミングウェイくらいは読んでおこう、という考えが誤っていて、ましてそれを英語教育の場に持ち込むのは百害あって一利なしであることは自明である。
しかし、「コミュニケーション能力」という、誰と誰が、いつ、どこで、何についてコミュニケーションするのかが定かでない、鵺(ぬえ)のような言葉を無反省に唱えて、無反省に突き進んでいる現状も異常といえる。
他者が、何を感じ、何を考えているのか、特に異文化の人々の内面に近づくのに、文学作品は非常に適した教材となりえる。豊かな可能性を秘めた教材を、一律に禁止している状態には、なにか焚書坑儒のような恐ろしさを感じる。
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