天才とは、人の努力では至らないレベルの才能を秘めた人物を指す。多くの天才は、精神疾患に苦しむ。天才と狂気は紙一重であり、芸術的創造性と精神疾患は共通する遺伝子で発現する。知能指数(IQ)の高さは必ずしも天才性(創造性など)とは結び付かない。ただ単にIQが高いのは秀才と呼ぶ。
『ぼくには数字が風景に見える』
『天才が語るサヴァン、アスペルガー、共感覚の世界』
ダニエル・タメットは、自閉症スペクトラム障害(ASD)のアスペルガー症候群またサヴァン症候群であり、しかも共感覚の持ち主である。彼は円周率を22000桁以上暗唱し、新しい言語をわずか一週間で話すことができる。
人間の脳には、潜在抑制機能があり、無関係だと判断した情報を遮断する。この機能が低下すると、脳は互いに“過剰結合”し、統合失調症やてんかんになり、幻覚や幻聴、記憶の氾濫が起こる。ところがほどよく“過剰結合”が生じた場合、全く異なる概念を結びつける“共感覚”という能力が生じる。ダニエル・タメットの場合、脳の中で隣接する、数字と言語を扱う領域が“過剰結合”しているので、数字が風景のように見える“共感覚”があるという。
こう考えると、自閉症スペクトラムやてんかん、統合失調症の人に高い創造性がみられる理由がわかる。脳の中の潜在抑制機能が低下し、大多数の人とは別の領域が“過剰結合”しているため、多くの人がたやすくできるコミュニケーションや顔の識別が苦手で、代わりに多くの人ができない計算や創造が得意なのだ。
『天才と発達障害 映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル』
天才建築家アントニオ・ガウディと、写真家にして童話作家ルイス・キャロル。
両者は共に自閉症スペクトラム障害(アスペルガー)だとされるが、その認知特性は正反対で、ガウディは視覚に、キャロルは聴覚に偏ったタイプだと思われる。そしてもちろん、健常の人にも発達の凸凹、つまり認知の偏りはあり、私たちは誰でもガウディかキャロルのどちらかに幾分は似ているはずなのだ。
認知は、主に視覚と聴覚の組み合わせで構成される。ものを考えるとき、言葉で説明することが得意な人は「聴覚優位」だ。それに対し、頭にイメージは湧くのに言葉にするのが難しい、絵に描いた方が早い、という人は「視覚優位」だ。
学校の授業はほとんど文字と言葉で行われるので、もし学校の成績が良かったとすれば、「聴覚優位」であることを示唆する。しりとりや言葉遊び、音楽、フィクション、二次元的なイラストを好む。一方「視覚優位」の人は、言葉を逐一脳内でイメージに変換するので、長々とした授業についていけず、読む速度も遅くなる。授業の大半は苦手だが、副教科が得意で、積み木やパズルからやがてノンフィクション、三次元的芸術、建築などに興味が湧いていく。
両者の差は、色や線の見え方の違いとしても現れる。関係するのは、脳の第四次視覚野(V4)と呼ばれる領域だ。視覚優位の人は、この領域が優れており、微妙な色の違いや明暗を見分ける。これを「色優位性」といい、このタイプの画家には、ワイエスやモネがいる。色優位性の人は、線を見分けるのが苦手なので、ディスレクシア(読み書き障害)を伴うことがある。ダーウィンやガウディがこれに当たる。一方、聴覚優位の人は、V4の働きが弱いので、明度が把握できず、線による認知に頼ることがある。これを「線優位性」といい、画家ではモディリアーニやロートレック、マティス、キャロルなどがいる。また、聴覚優位の人は、奥行きが把握できず空間認知が弱いため、文字情報に頼りがちで道に迷いやすく、人の顔を見分ける力が弱い。
両者の2つ目の違いは、「同時処理」か「継時処理」か、ということ。視覚優位の人は、物事のスケールを自在に変化させ、全体を見渡す“縮尺フリー”ともいうべき能力を持っている。ガウディはサグラダ・ファミリアの建設に当たり、常に全体を意識し、施工に長大な時間がかかっても、全体像が分かるような方法(全体→細部)で建物を作っている。一方、聴覚優位の人は、継時処理(順を追って)という方法で思考するので、細部から順を追って全体を把握(細部→全体)し、局所優位性を示すため、時に全体のバランスが悪くなる。
3つ目に、両者を決定的に隔てているのは、その次元の違いである。視覚優位の人は、時間軸がはっきりした4次元的な考え方で、昔のことを順序良く思い出せる。「映像思考」とも呼ぶべきもので、アニメーターなどに向くが、すべてが映像に変換されるため、読み書きの速度は遅い。これに対し聴覚優位の人は、「写真思考」とでもいうべき2次元的な記憶に頼っている。会話の時は芋づる式に写真が現れ、次々話題が飛んで饒舌になることがある。処理速度は速く、次々と発想が現れるが、記憶の時間軸があいまいなので、過去の出来事を今起きているように感じるフラッシュバックを起こしやすい。
さらに、アスペルガー症候群の特徴として、身体の脆弱さや運動制御に関する不器用さの問題もある。眼球周辺の筋肉の弱さから板書が困難だったり、逆上がりやボール蹴り、文字に適切に筆圧をかけるのが苦手だったりなどである。
また、発達障害の怒りっぽさには2つのタイプがあり、聴覚優位の人は、前述のようにタイムスリップ現象が起こり、昔のことが突然思い出されて腹立たしくなる。一方、視覚優位の人の場合、同時処理によって理解が早いため、なんで他の人はこんな簡単なことがわからないのかと、イラつくようだ。
以上2タイプに分けて述べたのは、あくまで両極端に位置するとみられるガウディとキャロルを比較した場合の話で、実際は認知の特徴の個人差は千差万別である。天才と障害との関りを考察することは、その境界にいる大多数の人にとっても、自己や他者への理解を深める上で有効な手立てである。
『天才の脳科学』
さて、ここで、天才と創造性について、さらなる2つの仮説を立ててみたい。
「創造性は誰もが持っており、訓練によって鍛えられるのか」
「創造性は一握りの天才にのみ与えられた、神の恩寵であるのか」
前者を「通常の創造性」、後者を「並外れた創造性」と呼ぼう。私たちは誰でも「通常の創造性」を身に付けている。言葉や文章を駆使したり、歌ったり絵をかいたり料理したり、これらはみな創造性の働きだ。通常の創造性は、程度の差こそあれ誰もが持っており、連続性(スペクトラム)のあるものだ。それに対し、天才がしばしば示す創造性はそれとは異なる。天才は、意識して考えていない時に、自ずと着想を得る。しかもその頻度が非常に多い。これを「並外れた創造性」と呼ぶ。創造的な人が集中しているとき、一見物思いにふけっているようだが、実際は覚醒レベルが低下し、思考が自由に飛び回っている。意識的に働かせる「通常の創造性」と無意識のうちに働く自由連想では、脳の働く部位が違う。つまり、「並外れた創造性」を持つ人の脳は訓練によるものではなく、おそらくは生まれつきの特殊なもの。誰もが持つ連続的に分布するものではなく、脳に発生する個人の性質であり、意識ではなく無意識と関連する。誰もが天才にはなれない理由がそこにある。
とは言え、その生まれつきの能力は、創造的な人との交流など、多くの環境刺激によって育まれることで、天才が生まれる。
「並外れた創造性」の持ち主を対象にしたIQテストでは、平均して120~130だったという。高い方だが、極めて高いという程ではない。ある程度のしきい値以上では、知能と創造性はあまり関係がないようだ。
では何かというと、創造性は統合失調症や気分障害(うつ病や躁うつ病)と関係がある。どうやら同じ遺伝子変質によって、創造性と統合失調症がもたらされるが、IQやワーキングメモリの容量によってそれを制御できる場合に、創造性として発揮されやすい。創造的な人の周辺に統合失調症の家族がいたり、創造的な人自身が気分障害だったりする例は枚挙に暇がない。科学分野の創造性と統合失調症の関係を示唆する逸話が多いのに対し、芸術(特に文芸)は気分障害との関係が深いというデータもある。
どうやら、創造的な人には2つのタイプがある。一方は、統合失調症と関係する潜在抑制の低下、つまり認知的脱抑制によって、創造性を発揮する天才たち。もう一方は、愛着外傷など心の傷をきっかけに文芸や芸術で創造性を発揮する作家たち。
文芸の作家は、無意識の創造性より、意識的な創造性に頼っている場合が多いだろう。とすれば、前者は「並外れた創造性」で、後者は「通常の創造性」の発達したものなのかもしれない。ただし、精神疾患そのものを発症してしまうと、創作活動ができなくなるので、精神疾患と健常の境目、断崖のふちに立っているかのような人が、創造性を発揮しやすい。
『天才と分裂病の進化論』
並外れた創造性を持つ統合失調症について、元々人類がサルからヒトへと進化し、文明を発展させるに寄与した遺伝子が、統合失調症の遺伝子変質だったと言われている。統合失調症の犯罪率は一般の人の60分の1以下と極めて低いが、稀に世間をにぎわすショッキングな事件を起こす例があり、危ないというイメージにつながっている。脳の中に、遺伝性の犯罪形質の部位があり、健常の人同様に統合失調症の患者の場合でも、大半の人には全く見られないが、一握りの人に限りある人は極めて多くあるのだ。劣性遺伝として治療または取り除ければいいのだが、問題は脳の中だけに、開けて切除するというわけにもいかない。戦前はロボトミーや電気ショックを与える方法で従順にさせたりもしたが、人道性のみならず効果も疑わしく、今では過去の遺物として、ホラーのごとき笑い話となっている。また、ナチは優性思想から、精神病者をガス室送りにして大量虐殺しようと目論んだが、仮に実行されればヨーロッパの栄光の歴史を刻んだ名家の血筋を根絶やしにすることになるということで、さしものヒットラーの威力をもってしても、それだけはできなかった。
統合失調症の人は、精神は繊細で鋭敏だが、身体は頑強であり、滅多に風邪も引かず痛みも感じにくい。癌、および認知症の罹患率が1万人に6、7人、0.06%と言われる。統合失調症に罹るのは、全人口のほぼ1% 世界のどの地域でも、いつの時代でも、均しく同じ確率で発症する。そう考えると、統合失調症は人類にとって、神様からの“パンドラの箱”的な贈り物なのかもしれない。
『世界で最もクリエイティブな国 デンマークに学ぶ発想力の鍛え方』
最後に、クリエイティブな人は精神的な問題に苦しみ、薬物・アルコール・喫煙・性的依存などの依存症を抱えやすい。悪魔に魂を売らなければ、創造的になれないのだろうか。
天才たちが依存症に陥るのは、クリエイティブになるのにそれらのものが欠かせない、というよりはむしろ、ストレスに原因があるようだ。クリエイティビティとストレスは隣り合わせで、それに追い打ちをかけるのが他者からの評価だ。クリエイティブな仕事というのは、他人に認められて初めて成り立つ。そうしたストレスや不安を紛らわせるため、依存症になってしまうのかもしれない。
さらに、クリエイティビティは、自制力など自己コントロールをつかさどる前頭前野の活動が弱いこととも関係している場合がある。抑制力が弱いことで、想像力が自由に働く一方、自制心に欠けがちなのかもしれない。
そうしてみると、クリエイティブな人は、精神的な問題や依存症を抱えやすいのは確かだ。遺伝的要因があるせいかもしれないし、創造性を評価する社会の目のためかもしれない。
まさしくリルケの言うように、「悪魔を失えば、天使も失うことになる」
では、「創造性と精神疾患は必ずセットでしか手に入らないものなのか」「創造性には遺伝的な素質や発達障害が必須であり、一般の人には手の届かないものなのか」
創造的でありながら、心の健康を保つことは可能である。しかも、誰もが創造的になり得る。それには条件があり、キーポイントはこれである。
「創造プロセスの多くは、個人で抱えきれるものではなく、集団で徐々に積み上げていくもの」
一人で孤独に創造しようとすると、精神的な問題を抱えがちで、個人として成功しなければいけないというプレッシャーは身を破滅させる。それに対し、一人一人が創造性を分担し、集団として創造的な作品を作り出すとき、創造性は健康に働く。
ヒッグス粒子の発見は、個人の天才による業績ではなく、チームとして一人一人が創造性を発揮した結果である。ディズニー・アニメーションで知られるピクサーが発揮する創造性も、集団という多様な土壌の上に成り立っている。
一人が突出した創造性を発揮する必要はなく、仲間とともに分担し、お互いの創造性を高め合う。精神疾患とかかわりのある「並外れた創造性」ではなく、誰でも訓練できる「通常の創造性」を最大限に発揮する。そのためには、創造的な仲間と交流し、創造的な環境に身を置く必要がある。
その意味で、私たち日本人は非常に恵まれているのだという。
世界各国の成人5000人に調査した結果、クリエイティブな国の第一位に日本が、クリエイティブな都市の第一位に東京が選ばれた。
日本人はあまり意識していないことだが、日本はとても創造的な国だとみなされている。「自分は創造的」と感じる日本の若者、わずか8%
日本の創造性については自己評価と他己評価に大きな食い違いがあり、日本人は自分たちがクリエイティブではないと劣等感を抱いているのに対し、外国からの評価は高い。
日本の学校教育や和を重んじる集団性は、個人の創造性をつぶしてしまっているとの批判が多いのも事実だ。おそらく、個人主義と集団主義のほどよいバランスの間に、ちょうどよく創造性を発揮できる環境があるのかもしれない。
クリエイティブに生き、しかも健康的でありたいなら、個人としてすべてを抱え込むのではなく、創造的な環境、創造的な仲間を持つことから始めたい。