セルフコンディショニング、セルフマネジメント、セルフケアの必要性
医療や看護・介護の世界でもよく言われることだが、人のお世話をする仕事においては、お世話をする人たちが心身ともにいい状態にあることが、よい医療、看護、介護を行う上で最も大切である。教育という分野においてもそれは同じであろう。
教育は生徒が幸せになれるよう援助することである。教える自分が幸せでなかったら全く説得力がない。教育者は目の前の生徒のニーズを満たそうとするあまり、ついつい自分の限界を超えて頑張ってしまいがちである。家庭教師というのは好きなことを仕事にしており、組織に縛られることも少なく、基本的には幸せな人が多いとは思うが、セルフケアについて一度よく考えておくのも悪くない。
また、セルフケアについての意識を高めておくことは、保護者対応においても役に立つ。日本人のほとんどがそうであるが、子を持つ親たちも基本的に自責・自虐傾向がある人たちが多い。「私の子育てはこれでいいのだろうか」と悩み、何か問題が起こると「私の育て方が間違っていたのでは・・・」と潜在的に自分を責め、自分を追い込んで不安を増幅させ、結果として不安定な気持ちで子どもに向かってしまうと親子双方にとってあまりいいことはない。保護者に対して自愛を伝えることは、親子関係を改善するきっかけになりうるし、それに伴い子供の心が安定し、前向きに勉強に取り組めるようになるだろう。
常に自分に意識を戻す
人間の意識は、普段は常に外に向かっている。それは五感が自分の外の世界を感知するようにできているためである。たとえば目は外に向かってついており、自分の外の世界を見るには適しているが、自分自身を見ることは難しい。目が覚めている間、意識は五感と連動して動く習慣がついているので、五感と共に意識も外に向かうのである。
だから、自分自身を見ようと思ったら、意識的に見る努力をしないといけない。自分を良い状態に保とうとするならば、自分が今どのような状態であるかを常に観察することが必要となる。これは、「自分を見よう」と決意して、日常的に自分自身に意識を戻す訓練をすることで可能になる。
一つには、人に向かって思うことを自分に向けてみるという方法がある。「どうすればこの生徒はうまくやれるだろうか、モチベーションが上がるだろうか」と考えるときに、「今自分のモチベーションは十分だろうか。何に対してやる気を感じているだろうか。自分は今幸せか」と自問してみるのである。そして、自分が幸せであるならばそれを祝福し、幸せでないなら、その自分の思いに寄り添い、共感するのである。
また、生徒を褒めることは言うまでもなく大切なのだが、それ以前に自分を十分に褒めているかを自問してみる。褒めるという表現が上から目線のように感じられるなら、認めるという表現がよいだろう。いつも生徒を褒めようとは努力しているが、自分自身を褒めるのは何か特別な目標を達成したときだけ、という人も多い。
人が自分に何かをしてくれたら愛して、そうでなければ愛さない、という態度を「条件付きの愛」といい、それは本当の愛からは程遠いものである。しかし、自分自身に対しては、かなり厳しい「条件付きの愛」で遇している人が本当に多いと思う。
古来日本では「自分に厳しい人」というのは高潔な人格の代表例として好ましく思われてきたが、自分に対する厳しさというのは自分を律する力のことであり、自責や自虐に溺れることではない。また、自分を律する力は、それだけの自分に対する信頼(自信)が基盤としてあって初めて可能になる。
一方で「条件付きの愛」は「○○が出来たらよい、できなければダメ」という考え方を心の深いところに植え付け、あるがままの存在をあるがまま受け入れ、認めるということを困難にする。自分自身に対して無条件の愛を注ぎ、ありのままを受け入れることのできない人は、他人に対してもできないのである。私たち教師は、自分を理解した分だけ生徒を理解できるし、自分を認めた分だけ生徒を認めることができるのだ、ということを肝に銘じるべきである。
自愛(無条件の愛)の実践
自分を褒める(認める)実践については、自分が最も愛を感じる存在に対する気持ちを基準に、自分にも当てはめていく方法をとるとよい。私の場合、きっかけは姪の誕生であった。私には子供がいないので、姪はことのほか可愛い存在である。私は姪がニコニコしているときも、ぐずって泣いているときも、ヒステリーを起こしているときも、どんなときでも可愛いと感じていることに気づいたとき、これが無条件の愛なのか、と思った。この愛を自分自身にも注いでいけばいいのである。自分がどんな状態であっても、ただそれを受け入れ、その自分にOKを出すのである。OKを出せないなら、なぜそう思うのか。どんな観念を大事だと思って自分にOKを出せないのか。自分自身以上に大切な観念とはいったいどんなものなのかを掘り下げて考えてみる。これも日常行っていける訓練である。
どの親も、自分の子どもに対して皆このような深い愛を抱いているのだろう。しかし、目の前の子どもの言動の足りないところばかりが目についてイライラしてしまったり、もっともっとと要求したりしてしまう。それは、自分自身に対しての愛と受容が足りないためである。自分がありのままで十分な存在だということが腑に落ちてくると、子どもに対しても、目の前にいるこの子のありのままで十分だということが深いところから受け入れられるようになる。
我々家庭教師が面倒を見る生徒の中には、勉強が嫌いだったり、苦手だったりして、自分に自信を持てない子が結構いる。そのような生徒たちに対しては、足りないところを指摘するのは、最小限でいいと私は考えている。お互いの関係をよくし、お互いにご機嫌に授業を進めるのが、回り道のようでいて、実は一番効率のよい方法である。生徒が「勉強って楽しい」とか、少なくとも「勉強ってそんなに嫌なものではないんだ」と思ってくれるような授業をすること。それは、授業を肯定的な雰囲気で満たすことであり、それにはまず教える私が肯定的な存在であることが何よりも大切なのだ。
具体的には、足りないところを指摘するのではなく、出来ていることを認める、しかも当たり前に出来ていることに着目し、認めるとよい。たとえば、授業の前に机の上に勉強道具を出してあるだけでも褒めるに値することだし、もっと言えば、きちんと授業に姿を現してくれるだけでも素晴らしいことなのである。問題を解いてみて、合っているかどうかの以前に、問題文をきちんと音読できたら、「上手に読めたね」と言ってあげていいし、全文読むまでもなく、一文読み終わるごとにうなずいてあげてもいい。そういうことをこまめに積み重ねるにはそれなりの観察力や根気が必要なのだが、普段から自分自身に対して同じように観察し、当たり前のことを当たり前にやっている自分を一つ一つ認めて褒めて祝福するというたゆまぬ実践がものを言う。
自分を知り、自分を愛し、自分を育てるということ
教育にせよ何にしろ、すべての行動、すべての認識は私から始まる。私が何かを見たり体験したりすると、自動的にそれに対する感情や思考が立ち上がってくるし、それらの感情や思考には必ず自分なりの判断がついてくる。感情や思考を立ち上げ、判断をくだすのは私である。そして、そのときにどのような私でいるかということが、どのような感情・思考・判断が起きてくるかに致命的に影響している。であるからこそ、常に自分をよい状態に保つことの重要性は、いくら強調してもしすぎることはない。自分を観察し、理解し、愛し、根気よく育てていくことは、生徒を育てていくことと同様に、私たち教育者の使命であると考える。
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