‘15年の国立大学改革で、文科省は「文系学部廃止論」を打ち出した。理由は、理系は役に立つが、文系は役に立たない、というものだ。
理系はわかりやすい目的があり、それを達成することで、ある程度数値化された「役に立つ」がある。一方、文系は、目に見える生産性、有用性を追うのでなく、自分でものを考える力を養い、価値や文化を創造する。それが延いては、人間らしく生きるという意味につながる。
役に立たないものは、生きていても仕方ないという発想が、身障者殺傷事件や大口病院の背景にある。社会的無用の者を処分するというのは、ナチのホロコースト(大量虐殺)と源は同じであり、根底に優性思想、バーバリズム(白人優位主義)的な発想がある。そうした人類の負の遺産に対し、歴史的検証を行い、倫理・ヒューマニズムを見つめ直すのが、文系の学のあり方である。
大学に、社会で即戦力となる人材の育成をとか、実務能力だけ教えるべきとする議論もあるが、そもそも大学は専門学校ではない。大学は、とりわけ文系学部は、技術よりまず理念を学ぶところだ。
10〜20年後には、50パーセント近くの職業がなくなるだろうと予見する学者もいる。効率だけを考えたら、AI(人工知能)の進化で、仕事の質も変化するだろう。
役に立つ、が社会の無駄を省くのみならず、人にとって快適な役に立つ、でなければ、テクノロジーの進歩は人々の幸福に寄与するものとはならないだろう。
世のグローバル化、IT化に伴い、どんどん外来語による発信力が強まり、日本語の求心力が薄まりつつある。
政治家のキャッチコピーやお役所言葉は、幅広い層に働きかける責任がある以上、できるだけわかりやすいものに越したことはないが、一方ターゲットが受験生、大学生であった場合はどうであろうか。
次世代の学生は、グローバル社会に出ていく以上、知の最前線の情報は必須であり、大学が発信する多様なコンセプトを理解し、使いこなしていかなければならない。知らないでは済まされない。今、多くの大学が取り組んでいる、大学改革の核となる概念について、共通認識をもたせることは、大学選びにおいても不可欠だ。
例えば、グロバリゼーション=モノ、人、情報が地球規模で移動
イノベーション=新機軸、新しい切り口
ダイバーシティ=多様性、多様な人材を積極的に活用する考え方
コレクティブラーニング=集団的学習
リカレント=生涯学習
今や、世界中の人間がアクセスできる、VU(バーチャルユニバーシティ)が生まれようとしている。IT社会の最たるデメリットは、格差拡大であるが、さらに時代の進化により、デジタルデバイドと呼ばれるIT弱者の溝が埋まると、天才がいつどこで生まれるか、ランダムで予測できない。
VUによって、学びの機会が増え、言葉の壁がなくなれば、世界は飛躍的に変わっていく。
2030年を待たずして、人工知能(AI)による自動翻訳機が実現する。ドラえもんの「翻訳コンニャク」の実用化である。言葉の壁がなくなれば、人材の流動化がぐっと増す。
一方、大学では何を学ぶか。一つのスキル、一つの知識で一生食べていくことはもはや難しい。知は、情報として常に刷新される。社会に出てからも、常に知識をアップデートしないといけない。問題は、大学がそのような環境になれるか。
コーセラやカーンアカデミーなどのオンライン教育プログラムがどんどん伸びている。無料で一流大学の授業が受けられ、良質のコンテンツが短時間で学べたら、誰だってその方が効率的でいいに決まっている。オンラインでは、それがもう実施されている。
リアルの大学には、社会的な認証(肩書)を与える役割があり、その資格と付加価値を享受するため、試練としての受験勉強がある。
今までは、果てしない労苦を要する、実社会に役に立たない膨大な知識の詰め込みが主だったが、大学入試制度が変われば、現状それを目的としている末端の教育も変わる。
次の学習指導要領改訂の目玉となるのが、アクティブラーニングの採用である。
生涯にわたって学び続ける力、主体的に考え続ける力は、受動的な教育では育成できない。学習者が、〈能動的に〉答えを待つのでなく、自ら発見し、問題解決する能力を養う。教師側には、考えさせる発問をし、待つ姿勢、緊張感を取り除く穏やかさ、が求められる。
PISAで断トツの学力水準を有すフィンランド教育では、ファシリテーション(司会・進行)能力が高く評価される。Aさん、Bさん、Cさんが意見を言い、Dさんは何も自分の意見を言わないとしても、皆の意見をまとめれば、Dさんが一番褒められ、認められる。多様な人種、多様な言葉と常に向き合う社会では、人間関係を調和する力が何よりも重んじられるのである。
一方、日本では、せっかく総合的な学びの機会が増えていたのに、学力低下が叫ばれるとたちまち教科型重視に移行した。グローバルな教育の流れからすると、逆行であり、鎖国的と言わざるを得ない。
将棋の世界では、4年後には名人がAIに勝つことはできなくなる、との予見が断言された。江戸時代以来の古来の戦法では、もはや超えられないところまで人工知能が進化している、ということだ。
時を同じくして、AIでは東大の合格点に達することはできないという記事をつい最近散見した。机上の計算や予測・分析力だけでいえば、棋士の名人級の能力値は、東大入試などお話にならないぐらい高いだろう。
要は文脈をとく力、読解力、つまりは総合的な人間力で、機械は未だしもヒトに及ばないということか。
今後、生活上の介助やパートナー的役割も、機械がどんどん代替していくようになっていくだろう。だが、生身の人間の温もり、言葉の微妙な綾までは、どうしても人とのつながりなしには求めることはできない。そこが、21世紀の教育産業に託された、最後の砦と言えるのかもしれない。 |