研修会の講師選定にあたり、心がけていることが2点ある。同じテーマが連続しないこと。タイムリーな内容であること。今年の夏は、終戦70年の節目なので戦争のテーマも候補にあったが、戦争体験者も少なくなっている折から、本年2月9日に当学院創業者である大(おお)先生が亡くなった。社葬ではなかったため、学院の先生方との正式なお別れも済んでおらず、私がこの場で語るのがよいと思った。 脳梗塞発症後の言語障害で、意志の疎通もはっきりとはいかなくなってから、家族葬にしたいと言ったため、真意は図りかねるが、本人の遺志を汲んだ。また訃報をマスコミに流してほしいというのが強い意向で、元気な内からやり方まで伝授。遺言どおりに、亡くなった当日、普段通り学院に出社しマスコミ各社にFax送信でリリースした。朝日、毎日、産経、日経、東京、埼玉新聞の各紙、とりわけスポーツ報知は大きく取り上げて下さった。ネット社会の今、ヤフーニュースでは即刻登載され、Web版の産経ニュースでも「さらば愛しき人よ」で特集を組んで下さった。唯一TV報道されたのがTBSのNステだった。ほとんどのマスコミが挙って採り上げて下さり、天国で父も大変喜んでいることと思う。 亡くなってから、休日はほとんど遺品整理に費やしている。特に著名人と一緒に撮った写真が数多く、イチロー選手、長嶋元監督、鳩山元首相、サッチャー元首相…この場で紹介しきれないぐらいあるが、今回は世間に知られたふくろう博士としての公的な顔でなく、息子として、父への思いを述べたい。 昭和9年の生年は、本当は12月29日生だが、11月だと徴兵制に当たるため、お国のために11月で出生届を出したと聞いている。10歳で終戦を迎えるので、思惑は外れるが、誕生日が二度あることで、誕生日ケーキを年二度食べられると言っていたのが、いかにも甘党で食いしん坊の父らしい。父と母がお見合い後に写したと思われるデート時のツーショット写真を発見したが、母も6年前に他界しており、今となっては当時の場所やエピソードを両親に聞けないのが残念である。父が34、母32歳で私が生まれた。父はよく酒を飲み、パイプも吹かし、マックスで体重が95キロもあった。小さい時の自分と父の写真が数枚はあるが、2人だけで映っている写真が少ないのに改めて気づいた。父と姉、母と息子という構図の方が、相性が強かったのかもしれない。
父は30代から糖尿病を抱え、晩年は母の逝去(平成20年10月8日)の2年後に、二度目の脳梗塞を発症。半年間の入院生活で治療とリハビリに励んだが、退院時に失語症は回復しなかったばかりか、完全車いす生活になった。自宅に戻りたいという気持ちは強かったが、在宅で24Hヘルパーは雇えない以上、孤立化や脳梗塞の再発の恐れもあり、自分も仕事をしながら介護するのも共倒れになる。退院の当日、心を鬼にして、自宅には一切寄らず本人の意向も忖度なしに、入居契約した介護付き高齢者施設へ直行。あえて自宅の近所ではなく、10キロ離れた施設に12月1日のオープン初日に入居の運びとなった。毎週日曜日に、鰻や餃子など本人の食べたいものを差し入れ、毎年の誕生日には、ふくろうのケーキを持って行った。
その後はしかし、年々脳梗塞による嚥下障害に苦しみ、毎年のように肺炎で入院を繰り返した。流動食だけだったため食欲も落ち、体重は40キロ台まで減っていった。亡くなる3か月前、昨年の80歳になった誕生日には、かつての福々しさはない。摂食や痰からくる重度の肺炎を繰り返しながらも、若い頃から糖尿になる位食べ物が好きな父であっただけに、胃瘻(いろう)を選択するよりも、口から食べられるまま自然に任せようと、その時に臨んだ。
今の若者には通用しないが、父の全盛期、研修会で司会の先生が家庭教師の先生を呼ぶ際に、返事が小さいと何回もやり直させた。父を知る人には怖いイメージがあっただろう。長女に対する躾も厳しかったが、この世で唯一息子の私にだけは優しかった。獣医を選んだ時も、経営の道に転換した時も、息子の考えを尊重し自由にさせてくれた。世間一般より裕福な家庭だった上、息子に甘い父だから、わがままに育ってもおかしくないところだったが、あの自己中心的な父を陰ながら支えた母が、太陽のような明るい存在だったからこそ、今の自分がある。父を想う時、現代医療の発展だと80歳で亡くなるのは少し短命かも知れないが、妻(母が72歳)と両親(祖父が49歳、祖母が79歳)が逝去した年齢を超え、長年の大病から思えば決して短命だったとは感じない。80年間の人生だったとはいえ、『常に全力で生き抜き、人生の中で最も個性的な存在だった』ということは自信をもって言える。 |
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