(1) 指導者は多芸たれ
人の上に立つ者は、常に専門分野の知識・経験以上の能力、見識、人格等が求められる。古川のぼる初代ふくろう博士は、プロ家庭教師たる者、学者、医者、記者、易者、芸者、役者たれ、と言われた。至言である。
さらに私は運動家、音楽家、グローバル「家」たれと言いたい。とりわけ世界のグローバル化が急テンポで進む昨今、家庭教師自身もグローバル化が求められる。
今回のテーマを、特にこのグローバル化に絞ってみたい。
(2) グローバル化を論ずる前に
グローバルといえばまず英語の普及が挙げられるが、日本の英語教育は本当にグローバル化に向かって進んでいるのだろうか。
かつて渡部昇一氏と平泉渉議員との間で、激しい英語教育大論争が展開された。
当時渡部氏は、英語は「知的学問であって、道具ではない」と主張し、一方平泉氏は「意思疎通のための手段である」と、難解な大学入試問題を批判した。
リスニングやトイック、トフル試験が重視される現状からみると、隔世の感があるが、当時英語は、数学や理科などと同列に置かれていた。
しかし、黒船来航から150年、敗戦から70年、英語の重要性が叫ばれてきたにもかかわらず、日本人の英語力、とりわけ会話力はほとんど進歩していない。いまだに大学生の90%が「英語は話せない」と答えている。
これは受験英語重視という教育方法もさることながら、日本人独特の「英語観」に遠因がある。憧れとコンプレックス。つまり上手くなりたいが、他人が上手く話すのは気に入らない・・・という悪しき島国根性だ。帰国子女の生徒が授業で外人並みの発音をすると、「英語しか能がないからね、あいつ」といじめられるという。
この一件が日本人の英語観を如実に物語っている。これを払拭しない限り、日本人の英語は上手くならないし、グローバル化など夢物語である。
(3) グローバル化への道
上記のような屈折した英語観の克服と、英語の実用化への道は、まずは英語圏の外国を直に知ることであろう。通信機器の発達により、海外の情報等はたやすく入手できるようになってはいるが、やはり現地を訪問することが肝要である。
多くの人種でごった返す現地(特にアメリカやオーストラリアなど)をみて、文化や歴史が日本といかに違うのか、身をもって感ずることだ。
次に英語教育の根本改革である。
英米人でさえ解けないような受験問題は、ナンセンスとしか言いようがない。高校の3年間は中学内容の繰り返し、会話練習に徹するべきだ。単にCDを聞かせるだけでは、リスニングの勉強とは言えない。極論すれば現状の大学入試問題を廃止しない限り、いつまでたっても日本人の英語は上達しない。このあたりを無視して、社内英語導入とか早期英語導入をしてみても、徒に英語恐怖、苦手意識を植え付けるだけである。
理想論であるにせよ、政府、実業界がこれだけ「英語重視」を声高に叫ぶのなら、もっと「インフラ改革」を行うことが先決だ。
テレビやラジオをつければ、常に英語の番組(教育番組ではなく)が流れている、外人がいるレストランやカフェがいたるところにある・・・など生の英語を使う機会が増えないと、進展はない。日本人の95%は、日常的に英語を使う機会などないのが現状だから。
英語の力は、総じて言えば、話してナンボの世界である。
(4) 我々家庭教師の役割
全世界的にグローバル化が進む中、家庭教師、とりわけ英語教師には、何よりもこのグローバル感覚が求められる。そこで、冒頭触れたように、多芸を極めつつ、真のグローバル「家」を目指して、日々切磋琢磨していく必要がある。
英語のできない生徒の苦手意識を払拭させる。受験英語とはまた別の観点から、使える英語、実社会に通用する英語を学ぼうという気概を持たせる。
どんな師に出会うかによって、その後の人生に計り知れない影響を及ぼし得るところに、教師という仕事の怖さと面白さがあるからだ。
国際テロに日本人が巻き込まれたり、対中韓関係の悪化や、TPP交渉・捕鯨問題で欧米諸国と対立したりする国際情勢の中、諸外国と渡り合いかつ協調していくためには、日本人一人一人、わけても若者のグローバル化が先決問題だ。
それを可能にしていくには、外からの体制作りを待つより、今すぐからでも、生徒と一番身近に、直接触れ合う機会のある、我々家庭教師が始めていかなくてはならない。
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