誰もが、いつでも主観から自由ではあり得ない。だから他者と付き合う時に大切なのは、「人間は心で動く生きものである」ことを忘れないことである。教える者、親、年長者としてそのことを考えてみたいと思う。。
一方で問題解決をする時には、いかに客観的であるかが重要である。そのために「学問の力」を磨く意味があるのだろう。
家庭教師とは、生徒が勉強をできるようになって、人として自立する手助けをする役割である。勉強ができるようになるには、モチベーション、基礎力、思考姿勢、学習姿勢の四つのポイントがある。
?@ モチベーション
勉強する者が効果を上げるには、これが最大の課題である。「やらされている感」と「やっている感」のどちらを持つのか、本人の感じ方で大きく違ってくる。教える者=大人の側から考える時、「医療における患者の自己決定権の問題」と比べてみよう。自分が患者の場合を想定して考えてみると、よくわかる面があると思う。
勉強をする目的の一つは、本人の意思を決められるようになることである。そのためには、それまでに「本人の自己肯定感」が育っているか否かも大いに関係がある。また、「勉強すること」=「強いられた苦」であり、「楽しいこと」=「[他の誰かが創造した娯楽]を消費すること」=「面倒なことから逃げること、楽をしたいこと」のみに走るという構図から抜けられるかどうかという課題もある。
では教える者の側は何が問われるのだろう。「考えること、生きることの意味と力」を伝えられるだろうか。「創造的な世界をつかむことは自由の翼を手に入れることだ」と伝えられるだろうか。「学問とは、生きることや身近なこととは無関係」と思い込んでいる生徒に、「衣食住も、自然も、愛することも、自分も世界も、全てが学問の対象になること」を実感していく手伝いができるだろうか。
そのためには、その生徒の生理的、身体的、精神的成長段階、個性的特徴、時間的ペースの特徴を客観的に判断し、その生徒の主観をできる限り理解できるように努めたい。その時、大人にとって何よりも必要なのは「待てる力」と「じっと見つめる力」である。そして教える者が生徒の主観になじむように勉強を伝えられるためには、客観的学問を深め、体系として掴む力を磨き続けることが課題であり続けるのだろう。
?A 基礎力
どんな難問も基礎力強化からわかるようになってくる。理解するだけでは基礎力が身につかない科目がある。算数や数学や英語などは、基礎力が自分のものになるために訓練しなければならない。。科目別の語彙もなじむまでの訓練が要る。
教える者の課題は、「生徒本人が弱い基礎力=弱点すなわち宝」を見分けること、そしてそれを補強することである。客観的学問体系から基礎を噛み砕いて考え、伝えられるようにしたい。
?B 思考姿勢
何でも丸暗記するだけの学習から意味が分かる学習へ変えていくこと。書くこと、まとめることで満足する学習から、身につくまで繰り返しができる学習へ変えていくこと。これらを勉強への思考姿勢を変えていくことと考えたい。
誤った学習法では、いくら頑張っているつもりでも効果が上がらない。「形式」だけで「内容」が伴わない学習法、量だけこなしても実質が伴わない学習法を変えていきたい。ぶ厚い基礎力が身についてくると抵抗感が減り、思考姿勢が変化してくる。印をつけて文を読み取ることや、図を描いて整理して解くことで、思考力が深まる科目もある。
教える者の課題は、生徒が一人で学習して思考が迷路に入った時に、思考モデルを実践して示すことである。そのとき注意したいのは、他の生徒で内容が伝わった方法が、同じように別の生徒に伝わるとは限らないということである。その生徒の個性による場合もある。教える者は、生徒の発想の主観からどのくらい学べるかが重要になってくる。
?C学習習慣
思考姿勢と学習方法が誤っていなければ、学習習慣をつけることこそ、勉強ができるようになるための最強アイテムである。学習習慣をつける時に教える者が最も注意したいことは、生徒本人の体力を見極めることである。体力の限界に挑戦して、寝不足で集中力が低下することが、最もよくない悪循環になる場合である。時間の使い方、個人差がある体力と成長の度合いに留意して、見守りつつ指導したい。
ここで、親の立場から「主観と客観の齟齬」が生じる場合を考えたい。
親はしばしば「子供にとっては試行錯誤こそが成長の原動力である」ことがわからなくなってしまう。親にとって、一年後、二年後、三年後、十年後の子供の成長を見据える視点を持つことは難しいことだ。しかし、今の姿や結果だけしか見ないと、わが子が努力できるようになったことは大きな可能性を手にしたことであることを見失ってしまうことになる。そして、わが子の何よりの原動力になるモチベーションを深いところで潰してしまうことになる。
また、よかれと思って行う親の思惑が外れる時に、主観のぶつかり合いになる。個人として有能な大人が、しばしば親や教師として失敗しやすい場合も多い。
[ 丸暗記できる。一を聞いて十を知る。理解速度が速い。完璧主義。負けず嫌い。結果だけで評価する。] これらの親が子供と合わない場合もある。
どちらにせよ、「主観と客観の狭間」で最も揺れるのが子育てであり、親とは矛盾を含んだ存在だと言えるだろう。
結局人である限りいつでも心で動き、主観的であり続けることから免れることは難しい。
教える者が自分をベテランと思って成功体験に頼って導く時、見えない部分が生まれて、真実が遠ざかることがある。親として教師として、私自身、失敗から得たことも枚挙に暇がない。
ここでは、今年教え子とのたまさかな心の交流によって感銘を受けた具体例を、二点参考資料として挙げておきたい。
(1)今年AO入試で、発達支援教育を学ぶ大学に合格した生徒の小論文を、本人の承諾を得て掲載する。
「今日の幼児、小学生の一番大きな課題は、人間関係を形成する力の低下ではないかと思います。他人への思いやりの心や、迷惑をかけない気持ちが薄れていることも原因となっていると思います。生命を尊重する意識の低下は、自分のことも相手のことも人権を認めらないことにつながっていると思います。無視され、人間関係にも物事の取り組みにも消極的になってしまう子もいると思います。
また、基本的生活習慣の乱れも大きな問題です。体が健康でなくなるばかりでなく、規範意識の低下もまねいています。
これらは、子供たちが将来大人となる際の手本となるべき大人がそうなっていないという問題点が考えられます。大人社会のさまざまな問題が投映されていると思います。
これらを解決するために、私は次のようなことを考えています。現代の若者は、幼い頃から否定される面ばかりが注目されがちですが、必ずしもそういう側面ばかりではないと思うのです。ボランティアや社会貢献への強い意欲や、積極的参加を実行する者も増えています。私自身も高1の春から障害者施設でのボランティア体験を通して多くのことを学んできました。子供たちは、さまざまな体験で、ねたみや悲しみ等を感じ、葛藤しています。自ら克服するに至るまで試行錯誤することについて、大人が寛容であることが必要だと思います。子供が何を感じているか、を大切にするかどうか、ということが、何より求められているのだと思います。
保育を志す自分はそういった心を持った保育者になりたいと思います。そのためには貴学で、障害のあるなしに関わらず、やさしくできる力を身につけたいと思います。子供たちの発達の環境が、今までにない厳しさの中にあるという現実を見据え、今の子供への保育の充実をしっかりすすめ、貴学の思いやりの心を育てるカリキュラムを学びたいと思います。」
彼との学習を通して私の方が学ばせてもらったことが数多くあった。
(2)次に六年前に生徒に送った私自身の文章を挙げる。彼女はこのファックスを机の前に貼り、自分らしい意志を自ら育ててきた。高3になって大学受験で依頼があって再会した時、迷ったり苦しんだりしていた当時の六年生に、私がここまで要求したことはすっかり忘れていた。彼女の自立した前向きの姿をみて教えられ、再び私自身も学ばされている。
「中学受験をなぜするのですか」
人は、大人になると、誰でも一人で判断していかなければいけないことが多くなります。その時に、今までの知識や経験から判断することになります。
どんな人も、自分の心と、頭と、身体は自分自身のものであり、自分でしか背負うことができないものです。他の誰にも代わってもらうわけにいかないのです。
中学受験は大人になるスタートの大きな体験です。限られた時間の中で、体力の限界に挑戦するのではなく、自分自身と向き合って優先順位をつけたことから精一杯やれる気力の限界に挑戦していきましょう。
他の人のせいにしても、何も手にすることはできません。自分自身が気力の限界を背負うからこそ大きな成長を手にすることができるのです。
あせらず一歩一歩やりましょう!まちがいには原因がありますから、なぜまちがえたか考えましょう!落とすための問題にひっかからず、とれる問題をすべてとっていける落ち着きをとりもどしましょう!覚えるもので忘れたものは、カード化してくりかえしましょう!ますますすてきなAちゃんになるために、共に歩みましょうね!!」
「負うた子に教えられ。」と言うが、教える者は教わる者であり、学ばされることが多いのだ。
教える者であり、大人であることは、自分も相手も脆くて、弱くて、けれども変化する強さの可能性を秘めている存在であることを忘れずにいたいと思う。
そしてどこからでも学べる楽しさを味わえる役割の幸せをかみしめていたいと思う。