大分前に上野千鶴子氏の「スカートの下の劇場」を読んだ時、人はなぜ勉強やスポーツ、仕事など、物事に一心不乱に打ち込むかという答えに突き当たった気がした。
上昇志向、向上心の大元は、カップリング希求とも重なる〈欲望〉原理である。
何もかもが備わった人間などいない以上、自分の付加価値を高める衒示的(見せびらかし)効果として、〈男は美貌 / 女は金・出世〉を相手に求め、それに応えようとする原動力が古今東西文化や歴史を動かしてきた。
高度経済成長、学歴社会もまた、そうした人々の小市民版的アメリカン・ドリームに支えられていた。モテタイ気持ちが、世の中をレベルアップさせてきたのだ。
翻って平成の日本社会を見るに、豊かさはとうに達成され、若者は快適で居心地のいい親元を離れてまでも、遊学などの苦労をあえて選ばない傾向が強くなっている。
では、現代の子供はなぜ勉強するか。親がなぜ勉強させることに躍起になるか。この仮説を繙いてみることはなかなかに興味深い。
昭和のある時代までのように、自分ができなかったことを我が子に望むのではない。ステイタスの相続や安定した楽な生活、平均以上のライフスタイルなどは、都市部で生まれ育った子ども達には、初めからある程度約束されている。日本がこの半世紀でめまぐるしく変わったことは、街の景観も含めた住環境と電機・工業製品の進化だということは、誰しも頷くところであろう。
無理に勉強していい大学に行くのがすべてという幻想はもはや終わった。終身雇用という神話の崩壊は、受験競争の激化よりはむしろ、ハングリー精神や目的意識・気概の欠如と相俟って、〈幸せ感の多様化〉という耳触りのよい言葉で人々をじわじわと蝕んでいる。
結果、ますます二層化する流れの中で、昔とは一風変わっていながら、学問、学歴にどうしても譲れないものを持っている家庭も存在する。親自身が勉強の価値や意味を重く考える所以である。
大学でしか求められない一生の友人・師弟関係。物事の本質を深く学ぶ姿勢。つまりはそこで得た人脈とか教養のはかりしれなさを知っているからこそ、目に見えて簡単に与えることのできる物質的なものとは違う知的財産を、子ども自身の力でつかみ取ってほしい、そのための最大限の支援をしたいと願うのではないだろうか。
閑話休題、江戸時代には寺子屋、学問所の他に算学塾というものがあり、藩士から庶民まで挙って、読み書き算盤から高度な数学を学ぶため、遠路はるばる押し寄せた。金や出世や特に何かのためというのではなく、純粋に学問をする喜びのために。そして問題が解けると、「算額」という木版に打ち付け神に奉納するのだ。日本人は、元来ことほど数学好きの国民だったのである。
また、世界中の数学者が350年もの長きにわたって、解法への魅力に取り憑かれていった「フェルマーの定理」には、驚くべき事実がある。
フェルマーという天才数学者が、「私はこの公式が正しいことを発見した。だがその証明を書き記すスペースがない」と言い遺し、死んだ。以後、人から人へバトンリレー的に解法の糸口が受け継がれ、特に谷山・志村という2人の日本人の理論が大きな功績を果たして、遂に1991年、それを発展させたワイルズによって証明がなされたのだが、ここでまた劇的な展開が起こる。それだけの大命題だと審査にも時間がかかり、その途中でワイルズ自身が自説の欠陥に気づいてしまう。ここでまた大きな役を担うのが日本人だ。ワイルズは、岩澤という日本人数学者の学説を探し当て、これによって谷山・志村理論の正しさが証明され、結果フェルマーの最終定理が完璧に証明され得たというわけだ。
私には、フェルマーの定理を理解するだけの数学的頭脳はないが、こうしたわくわくするようなロマンティックな経緯を知ると、偉大な日本人の存在が数学の世紀の発見に寄与したことが、無性に誇らしく思えてくる。
そして、文系頭でつらつら考えるに、我々日本人が数の世界にはまりやすく、奇異な才能を持っているのは、四季折々の自然に恵まれた日本の風土に関係があるように思えてならない。日本人は、自然の中に美を感受する心において、世界でも比類のない繊細さを持ち併せているのである。
西欧の建築や人体を構成する黄金比はすべて8:3である。(クフ王のピラミッド、パンテノン宮殿、ミロのビーナスからアングルの「泉」、向日葵の種や蜻蛉の目玉まで枚挙に暇がない)
それに対して、日本では白銀比(7:3)を伝統的に用いる。原理は、丸木から正方形をくりぬくに最も効率的な方法として、曲尺の裏と表を1:√2 にしているわけだ。昔ながらの美徳である「もったいない」精神にも通じる。俳句や生け花から伝統行事、交通標識に至るまで、我々の日常感覚は7・5・3で成り立っている。
襖や畳は、縦が約180の横が約90、つまり正方形2つ分である。茶室の標準形である四畳半も、二畳の小間も、どちらも正方形から成る。岡倉天心は「茶の本」の中で、茶室の正方形は、禅の心を反映したものであるとしている。大乗経典「維摩経」によると、主人公、維摩居士が一丈四方の自室に文殊菩薩と仏陀の弟子8万4000人を迎えたとある。物理的には不可能なことだが、茶室には現実の空間を超越した無限の宇宙がある、という寓話である。
川端康成は、「美しい日本の私」と題したノーベル文学賞受賞講演の際、「森羅万象が雪月花という言葉に集約される」と述べている。
日本の自然が生命の神秘と驚きに満ちているのと同様に、数の中にもまた無限のドラマがあり、愛があり、誘惑的な魅力にあふれた世界がある。
素数…孤独だが毅然と自立した存在
友愛数・親和数…まれにみる出会い方をして結ばれた、この世に一つだけの関係
人の生き方と照らした場合、どちらにも宿命的なものを感じざるを得ない。人生やパートナー・家族との生活、友達関係を潤すものは、プライベートとパブリックの相互補完だ。
仕事を考える際に、もの作り以外は総べてサービス業である。人の役に立つことと、表現し自分がやって楽しいことは違う。その上で、時間をどう使うか。組織や社会で求められることをきちっとやるために、一般常識や基礎能力を高めるための勉強が必要というわけだ。
今秋、アゴタ・クリストフの「悪童日記」が公開される。戦争の最中、盗みや人殺しもいとわない双子の少年の透徹な倫理観が胸をえぐる。世界中のあらゆる世代に読み継がせたい衝撃作だが、作者が3部作までもかかってどうしても書き遺したかったものは何か。
第2次大戦とジェノサイドという20世紀最大の負の遺産。それを目の当たりにした者として、ハンガリーという虐げられた歴史を持つ民族の血を引く者として、これを伝えなければ死ねないという確たる思いがあったのではないか。
時の流れや人の意識は、そう簡単に塗り替えられるものではない。歴史的な俯瞰をもつことは、日本人とは何なのか、自分とは、と考えることにつながる。そこから、生涯にわたる知的動機づけ文学、音楽、美術、数学、歴史など、すべての学問・芸術・文化への興味と理解が広がる。
戦争や震災など、明日を食いつなぐことも大変な時には、誰も文化や美意識になど目がいかない。江戸の、天下泰平で豊饒な日本文化が花開いた時代の写し絵が、21世紀の今、世界のいたるところで新たに繰り広げられることを願って止まない。
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