|
|
|
|
本名はシュウジと読みますが、アキモリをペンネームにしておられる。
1960年生まれ。
日本映画大学准教授。
専門分野 :哲学・現代思想・映画論
著書 :
『ビフォア・セオリー 現代思想の争点』 慶応義塾大学出版会
『よくわかる倫理』(共著) 学研教育出版
翻訳 :
ベルンハルト・ヴァルデンフェルス 『フランスの現象学』(共訳) 法政大学出版局
連載 :
週刊「図書新聞」誌上にて「現代思想で読む映画」連載中
|
|
映画知について
(1) 映画をひとつの「装置」と考えることができます。「装置」とは、目に見える制度や建築や機械とともに、目に見えない観念や言説を含む全体です。映画装置のもっとも分かりやすい例と言ったら、映画館、撮影カメラ、宣伝コピー、映画批評、スターのインタビューなどです。
(2)「映画装置」を行為という側面から考えると、まず「撮影すること」、「編集すること」、「上映すること」等が挙げられる。そのうち、映画体験の始まりは、まず「映画を見ること」です。映画装置にとって、あらゆる人は観客です。
(3)一本の映画を見ることは、単に一本の映画作品を見ることではない。一本の映画を見ることは、潜在的に限りなく広い「知の体系」に接することです。特にその映画が外国映画の場合は、「知の体系」はつねに未知なものと接しています。
(4)この知の体系には、外国語、民族性、習慣、歴史、地理、風景、政治制度、宗教、行動パターン、思考パターンなどがあります。こうしたことを知るためには、つまり一本の映画を理解するためには、その国の言語、思想(哲学)、文学、歴史、また最低限の映画史の知識が必要です。
(5)逆から言えば、ある外国語を修得し、その国の文化や文学を手っ取り早く理解したいと思えば、その国の映画をたくさん見ることです。映画はその意味ですぐれた「テクスト」(=教科書)なのです。
(6)映画のテクストはさまざまに使うことができます。一本の映画(DVD)をある文学の翻案として見ることができます(大学の「文学」の授業)。また、それを議論するためのたたき台にすることもできます(討論会の冒頭での上映)。また、それを恋愛の小道具に使うこともできます(映画デート)。また、ブログやTwitterのネタにすることもできます(そのことで好感度を上げることもできる。前田敦子さんの例)。もちろん、それを学術的な分析や解釈の対象にすることもできます(映画学の論文)。
(7)つまり、映画を見ることは、ほとんどすべての文化的な行為に接続されています。一つの装置/テクストで映画以上に広範な射程をもった文化物は他にはないでしょう。だからまず多くの映画を見ること、あとはそれぞれの人の好きなように映画を使用することです。「映画知」は映画を見ることから始まり、また映画を見ることで更新されます。
映画力について
(1)映画体験はすべからく映画を見ることから始まるが、それで終わるわけではありません。「映画を作ること」というまったくべつの行為があります。しかしこの行為は「映画を見ること」と別のものではありません。映画を見ない者には、映画を作ることはできません。
(2)映画を作ることを「映画活動」(映活)という人もいます。ここでは、映画を作る力を便宜的に「映画力」と名づけます。
(3)映画力は個人の力ではありません。これが映画のもっとも特徴的なことです。一人のすぐれた脚本家、一人のすぐれた演出家(=監督)がいたとしても、それだけではすぐれた映画(=傑作)は作れません。映画力はスタッフ全体の力、スタッフの力の総和以上の力です。これを「スタッフワーク」だと言う人もいます。だから映画作りはスタッフ論だと。
(4)映画力というスタッフの力の総和以上の力は、一体どこに由来するものなのでしょうか。すぐれたスタッフがいるだけでは、必ずしも傑作が作れるわけではありません。
(5)映画力が最大限に発揮されるには、適切な規模の資金、適切な準備、適切な期間の製作日数、すぐれたプロデューサーが必要なのです。しかしそれは暫時的なもので、永続するものではありません。一つの映画(プロジェクト)が完成し、公開されれば、チームは解消されるのです。
(6)映画力は集団的な力ですが、、それを内側から支えている力はあくまでも個人のものです。それぞれのスタッフワークで個人に力量がなければ、映画力は発揮されません。しかし重要なのは、個人の力で培ってきた能力が映画力においては、より以上のものになるということです。個人の力量の多い少ないは、あまり関係がありません。
(7)映画装置は、言ってみれば一つのプロジェクト全体を言い表す言葉です。一つのプロジェクトには必ずその場に必要な人がいます。個人にとっては、自分がどの場においてもっとも映画力を発揮することができるのかを考えてみることが重要です(適性)。
(8)こうなると映画力とは比喩以上のものになります。映画力というものが映画装置以外の「一般的装置」にも適応可能であることがわかります。社会は「映画力」を利用すべきではないでしょうか。
|