今回、研修会でわたしが伝えたいことは、「家庭教師は生徒の学習の準備に、原則的にはご父兄の助力をあてにするべきではない。」ということである。ただし、ご両親がお子さんの生活全般を管理する度合いが高い小学生の場合は事情が異なる。今日のわたしの話は、中学生や高校生に限ってだと考えてほしい。
ご家庭ごとに、差異が大きいもののひとつに、ご父兄(特にお母様)がお子さんの生活や勉強に、どれほど関与しているかということがある。たとえば、とある中学生のお家では、毎夜、お母様がわが子の学生かばんをひっくり返し、学校からの連絡プリントを引っ張り出すのが習慣化している。ところが、別のご家庭では、完全な放任主義で、「もう、子供じゃないんだから。」と、学生かばんの中身は、完全に生徒本人だけが触れる領域になっているのである。
兄弟が少なかったり、長男長女だったり、性格的におっとりしていたり、あるいは三月の末の生まれであるなど、お母様がお子さんについて特別に配慮をされ、手をかけられる事例は珍しくはない。しかし、いずれにしろ、子離れや親離れは進んでいくものである。
小学生のお子さんが、その時その時、学校で何を習っているのかご存知のご父兄は多いかもしれないが、お子さんが高校生になった頃には、教科書の進み具合をきちんと把握しているご両親などめったにいない。同様に、お子さんの勉強道具がどこにどう保管されているのか−たとえば、世界史の資料集が部屋のどこにあるのか。もしくは、学校のロッカーにでもあるのかを、知っているご両親も稀有なのである。
よって、中学生や高校生を教える場合、ご父兄の助力をお願いしても芳しい結果にならないし、期待するべきではない。家庭教師とご父兄と生徒という三角形で学習体制を作るのではなく、あくまで、家庭教師と生徒という一本の直線の間でやりとりが全うされるような関係を作るべきなのだ。
わたしがこう考えるようになったのには、いくつか理由がある。
とあるご家庭では、上記のようにお母様が毎晩、ご子息のカバンをひっくり返してはプリントや教科書を整理されていた。放っておくと、ご子息が提出すべきプリントを見せるのを忘れてしまい、学校から注意を促す電話連絡が来るからだ。よって、このご家庭では、お母様がお子さん本人以上に状況をよく把握されていて、家庭教師であるわたしに口頭で情報が伝えられることも多々あった。一方、生徒本人は生活のすべてを母親に委ね、教科書の所在どころか、明日の自分の予定も知らないで暮らしていた。そして、あるべき資料や教材、学校からのプリントなどが見当たらない時も、生徒に聞いても埒が明かないことが多かったので、わたしはお母様を非常に頼りにしていた。生徒と家庭教師の二人三脚ならぬ、お母様も交えての三人四脚の日々が二年ほど続いた。
ところが、生徒が高校生になったのを境に、突然、お母様は方針を変えられた。勉強部屋が母屋から遠い離れに移され、玄関も異なるために、わたしはお母様にめったにお目にかからなくなった。生徒に聞いても判然としないテストの日程や範囲などを室内電話で尋ねても、「もう、この子も大人なんですから。(わたしに聞かないでください)」と、どこか迷惑そうな感じに話されるようになった。中学の間は、夜の十時を回っていようが、学校の担任の先生に自ら電話をし、不明な点を確認されていたお母様だったから、その変わりようには、当初、非常に戸惑った。しかし、よくよく考えれば、それまでこちらが彼女に頼りすぎていただけの話だった。
そのことに気づいてからは、勉強に必要な教材や情報が遅れることなく入ってくるように、生徒本人を教育することが必要となった。毎回、勉強に関する新たな情報がないか確認し、(山をかけるように、たぶん、こういうテストが近々あるだろうとか、こんな宿題が出るのではないかとか、先回りをした聞き方をするのである。)、次回、勉強に使いそうな教材があれば、学校のロッカーに置いてこないように注意を促す。情報が欠けていた場合に、補ってくれそうな友人の名前を把握し、その中で誰の情報がもっとも確度が高いかを把握する…などなど。要は、できる限りの手を打ったのである。
もちろん、それまでお母様におんぶに抱っこだった生徒が、急に几帳面で信頼性の高い性格に変わるわけでもなく、あいもかわらずテストの範囲が不明なままだったり、出題範囲のプリントがなかったり、勉強を教えるのとは違う意味での苦労は絶えなかった。
しかし、それはそれでいいのである。そう思えるようになったのは、また別の似たような生徒を教えてからである。
この生徒はやはり高校生の女の子で、勉強道具をしょっちゅう紛失してばかりいた。もともと、学校に教科書を置いてくるのが習慣になっていて、そのため、家庭学習用にもう一冊ずつ、お母様は教科書を買って備えていらした。ところが、生徒はそれも学校に持っていったあげくに、紛失させてしまうのだ。そうかと思えば、同じ教科書が三冊も家に存在することもあった。(借りたものだそうだが、誰のものかわからないので返せないのである。)さらに、物の整理整頓がなっていないため、学校からのプリントを探すのに、毎回、半時間以上の時間がとられるのが常だった。それで、教えはじめの頃、生徒とふたりして探し物をしている最中に、たまたまお茶を持っていらした生徒のお母様に向かって、「○○のプリントはどこにあるんでしょうか。おとといまでは、書棚のここに挟んであったのですが」とか、「現国の教科書が見当たらないんです、お嬢さんは持って帰ったとおっしゃっているんですが…。」などと、他意もなく口にすることが何度もあった。
だが、それは正しいことではなかったのである。指導を開始してから数ヶ月ほどたったころ、モニターレポートにお母様はこう書かれた。
「先生はいつも、教科書がない、プリントがないとおっしゃいますが、プロ家庭教師ならそんなものがなくても、なんとかしてください。」
まさに、おっしゃるとおりである。お母様がそう書いてくださったおかげで、こちらの目も覚めたようなものだ。勉強がはかばかしく進むように、生徒に教材を準備させるのも、家庭教師の仕事のひとつなのだ。これも、指導力のうちと心得るべきだと思う。
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