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はじめに 我々は学校や塾の教師ではない。すなわち、諸教育機関の経験豊富な教師陣が、恐らくは熱意をもって、苦労と工夫を重ねて行ったであろう授業を受けた上で、やはりそれでも授業についていけない、あるいは成績が芳(かんば)しくないという生徒を任されることが少なくないということである。もちろん、大学受験生で、志望大学の求める学力と在籍する学校の授業のレベルが乖離(かいり)しているのを埋めて欲しいとか、高校に行っていない生徒で、大検および大学受験に耐えられる学力をつけたいとか、我々が求められる理由は、実に多様である。 誰に何を教えるか 家庭教師にもっとも必要なことは、生徒ひとりひとりの特性や能力に寄り添って、授業を行うことだと信じている。生徒をタイプに分けたり、成績でカテゴライズすることがいかに無意味なことか。生徒それぞれの環境や資質、学習面における履歴や精神的な成熟度は千差万別であり、ご家庭からの要請も成績不振による留年や放校の危機の回避、不登校をしている間の代替授業、大学受験、高校受験……と、多岐にわたる。そして、生徒を取り巻く環境も、彼ら自身の内面も、成長し続ける十代の外見同様、刻々と変化し続けていくのだから、集団指導の手法や、ファーストフード店然(しか)りのマニュアル的な対応でしのげる場面はそれほど多くない。 たとえば、本日、ある先生から単語の覚えが悪い生徒にどう対応するかという質問が出された。その生徒は何年たっても、中一レベルのごく短い単語さえも覚えられないという。研修に出席した諸先生方から出された解決策(語呂合わせを活用する、カードを活用する、ゲーム形式を取り入れる等)はいずれも、それぞれの先生が違う生徒に対して実際に行い、効果があった方法だった。それでも、くだんの生徒に対して、どれが最も有効なのか、あるいは、どれも効果がないのか、それは当事者である家庭教師にしかわからないことなのである。 わたし自身の経験からすれば、「単語を覚えられない」という括(くく)りは、その生徒について何も語っていない。逆に、記憶力の問題と片付ければそれだけのことであろうが、そういう生徒の中には、単語を覚えるにしろ、文法を理解するにしろ、わりと選択的に「覚えず、理解しない」ことがあるように思われる。名詞は覚えても、動詞は苦手な生徒もいれば、助動詞のshouldを「えすえいちおーゆーえるでぃー」と唱えながら書けるのに、意味は書けない生徒もいる。(彼は「…すべきである」という日本語を口にするまでに半年かかった!)また、単語を覚えるということは、「つづりが書けて、意味が言える」ということでもない。文法が理解できていなければ、センテンスは単語の羅列(記号の行列?)でしかないのだから、日本人が漢字を覚えるのとはわけが違う。(単に意味やつづりを書かせるような出題ばかりなら、テストはどれほど平穏だろう!)そのようなことをクリアしている場合でも、長文の中でgovernmental response to the communicable disease を「通信可能な病気に対する政府の返事」と訳すような生徒に、どのように各単語がもつ意味の支配域を感知させるか。われわれの課題は尽きない。 さらに、我々の日々の体験は、学びの度合いや順番が想定外である事例に事欠かない。 直接話法を間接話法に変換するのであるなら、被伝達文が疑問文でもすらすらと解けるのに、「You like music.」を疑問文にすることは、いまだにできない高校生もいるのである。 さて、さまざまな生徒に対し、家庭教師は日々奮闘を重ねるが、長期間に渡って説明と練習を百回繰り返しても、生徒のほうに受けいれる状態ができていないと、聞き流されるだけで、たいてい上手くいかない。しかし、文法にしろ語法にしろ、生徒の方から「それって、どういう意味?」とか「これは、どうやって解くの?」などと、彼らが自ら、教えを求める時が必ずくる。そんな時、もっとも時宜(じぎ)を得た対応ができるのは家庭教師であろうし、何よりもその時を「待てる」のは家庭教師だけだろう。 なにも「時を得る」ことだけが家庭教師の優位性ではないが、生徒にあわせるということの一例としてあげた。もちろん、生徒によっては非常に優秀で学習意欲に富み、次元のちがう世界へと彼らをひきあげる推進力となることを家庭教師に期待していることもある。そして、そのような生徒の場合、我々の苦労は比較的少ない。しかし、いずれの場合も、生徒に寄り添う授業を行うということでは、我々にとって、何ら変わるところはないのである。 これまで、生徒のことばかりを書いた。けれど、最後に最重要事項について触れねばならない。それは、実は我々の側の問題、つまり「誰が」教えるかということである。(他の教師が教えれば、もっと成績があがったであろうとか、もっと楽しく授業ができたかもしれないという可能性は、どんなに優秀な家庭教師であろうと否定できまい。)これは、我々が、いつまでも、自分につきつけ続けねばならない問いだろう。 |